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« 旅立ちの日に(埼玉県秩父市影森中学校教員)1991年/平成3年 | トップページ | 日本の職業野球人!(WBC韓国戦) »

2009年3月 8日 (日)

侍、白洲次郎!

★人物探訪: 白洲次郎(上)~ 占領軍総司令部との戦い★
               
  「勝ち目がないとわかっていても、男には戦わなければ

ならない時がある」
   
■1."Difficult Japanese"(扱いにくい日本人)■

     昭和20(1945)年12月。日本は敗戦後、最初のクリスマス
    を迎えた。マッカーサー元帥一家に天皇陛下からクリスマス・
    プレゼントを渡すというう話が持ち上がった。元帥には毛筆セッ
    ト、夫人に雛人形、息子アーサーには人形とキャンディが準備
    された。

     吉田茂外相の名代としてGHQ(占領軍総司令部)との交渉
    窓口を任されていた白洲次郎がプレゼントを持参した。GHQ
    は皇居お堀端の第一生命ビルを接収し、マッカーサーの部屋は
    その6階の奥にあった。ドアの前には銃を持った二人の憲兵が
    立っている。

     次郎が部屋に入ると、マッカーサーの机の上には贈り物がう
    ずたかく積まれていた。「そのあたりにでも置いておいてくれ」
    と、マッカーサーは絨毯の上を指さした。

     そのとたん、次郎は血相を変え、「いやしくもかつて日本の
    統治者であった者からの贈り物を、その辺に置けとは何事です
    かっ!」と叱りとばし、贈り物を持って帰ろうとした。さすが
    のマッカーサーもあわてて謝り、新たにテーブルを用意させた。

    「戦争には負けたけれども奴隷になったわけではない」、それ
    が彼の口癖だった。日本人離れした体躯と英国仕込みの英語で、
    次郎は総司令部の高官と堂々と渡り合った。そのため、"Difficult
    Japanese"(扱いにくい日本人)と呼ばれていた。

■2."Be gentleman"(紳士たれ)■

     白洲次郎は、明治35(1902)年、現在の兵庫県芦屋のあたり
    に生まれた。白洲家は三田藩(兵庫県三田市)で代々儒官を務
    めていた名家で、父・文平は綿花貿易で成功した資産家だった。

     次郎は、名門・神戸第一中学校に通ったが、暗記中心の詰め
    込み教育になじめなかった。「先生の教えることをそのまま答
    案にすることがそんなに偉いのか」と疑問を感じていた。その
    ため成績は中程度で、このままでは兄のように旧制第三高校
    (現在の京都大学教養学部)には入れそうになかった。「それ
    ならいっそのこと留学せい」と父・文平が断を下した。

     19歳にして英国に渡り、現地の高校を経て、ケンブリッジ
    大学に入学。東洋人は次郎一人だったが、猛勉強して、2年目
    にはトップクラスに入った。

     物理学の試験を受けた時のこと、授業で教わったことを徹底
    的に復習して、自信を持って臨んだが、結果は意外に低い点数
    だった。「君の答案には、君自身の考えが一つもない」と書か
    れていた。「これこそオレが中学時代に疑問に思っていたこと
    の答えじゃないか」と、痛快な喜びがこみ上げてきた。次の試
    験では、自分の意見を存分に書いて、高得点を貰った。

     ケンブリッジ大学では、学業だけでなく、ことある毎に"Be
    gentleman"(紳士たれ)と教えられた。紳士は自由であるとと
    もに、自らを規律と原則で律する。その精神的バックボーンは
    騎士道である。武家の家に生まれた次郎には、それと共鳴し合
    う武士道精神が脈打っていた。

■3.「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」■
   
     昭和3(1928)年、金融恐慌のあおりを受けて、父の事業が行
    き詰まった。次郎は8年間の留学生活を終えて、日本の土を踏
    んだ。26歳になっていた。

     次郎は『ジャパン・アドバタイザー』という英字紙の記者と
    なって家計を助けた。数年務めた後、日本水産の取締役外地部
    長に就任し、日本産鯨油の欧米輸出に携わった。

     やがて幼友達が、後に首相となる近衛文麿の私設秘書をして
    いた縁で、近衛と近づきになった。近衛は息子の文隆の面倒を
    見てやってはくれまいか、と次郎に頼んだ。文隆は米国プリン
    ストン大学に留学したが、ゴルフやカーレースに熱中して、学
    業不振のため卒業できずに帰国していた。

     次郎は自分に似たところがある文隆を可愛がったが、叱ると
    きは大声で叱った。後に文隆は出征し、満洲でソ連軍に抑留さ
    れた。元首相の息子だということで、ソ連の手先となるなら帰
    国させてやろうという誘いを断って、11年の抑留生活を経て、
    不審な死を遂げた。[a]

     この事を後で知った次郎は、怒りに身を震わせながら痛哭し、
    「ソ連の野郎、絶対にゆるさねえ!」と天を仰いでその非道を
    呪った。
   
■4.「ここからが正念場だからな」■

     また次郎は、妻となった正子の縁で、吉田茂とも知り合った。
    次郎はまだ27歳、51歳の吉田とは親子ほどにも年齢は離れ
    ていたが、軍部を牛耳る東条英機と顔を合わせても挨拶しない
    ほどの硬骨漢ぶりに親しみを感じていた。

     後に吉田は駐英大使として赴任するが、外務省で飛ぶ鳥を落
    とす勢いの松岡洋右の日独同盟路線に反対し、孤立していた。
    そんな吉田を次郎は英国出張の際にふらりと訪れては、ビリヤ
    ードをしたり、ビールを飲みながら談笑した。それが孤独な吉
    田への思いやりだった。

     やがて、二人が心配していた通りに米国との戦争が始まった。
    次郎は今の町田市のあたりに引っ込んで百姓を始めた。東京が
    空爆され、食糧不足に陥ると読んだからだ。日本軍が勝ち進ん
    でいる時に、ここまで考えるのが次郎の天才的な所であった。

     次郎の読み通り、日本は焦土と化して敗戦を迎えた。幣原内
    閣で外相に就任した吉田は、昭和20(1945)年12月、次郎を
    GHQとの折衝役として、終戦連絡事務局参与に任命した。
    「戦争に負けて外交に勝った歴史もある。ここからが正念場だ
    からな」と、吉田は期待をこめて次郎に語った。

     昭和天皇からのクリスマス・プレゼントを持参して、マッカ
    ーサーを叱りとばした冒頭の逸話はこの直後のことであった。
   
■5.GHQの中の赤色勢力■

     次郎の主な交渉相手、というより宿敵が、民政局長のコート
    ニー・ホイットニー准将と、行政公職課長チャールズ・ケーディ
    ス中佐だった。

     民政局には共産主義者が多く混じっていたと言われる。3年
    後、アメリカに戻ったケーディスが、国務省のジョージ・ケナ
    ンを訪ねた時、「あなた方は、日本を共産主義国家にしてソ連
    に進呈しようとしていたのだという噂もありますね」と、面罵
    されている。[1,p263]

     そんなケーディスたちを警戒する勢力はGHQ内にもあった。
    参謀第二部のチャールズ・ウィロビー少将である。ウィロビー
    は反共主義者で、ケーディスらが日本を共産主義国家に改造し
    ようとしているのではないか、と危惧していた。

     昭和21(1946)年1月4日、民政局は自らが「軍国主義者」
    と認定した人々の公職追放令を発令した。ウィロビーは「この
    ように徹底的な追放を行えば日本は大混乱に陥ってしまうだけ
    だ。赤色革命を起こす可能性だってある。追放は最高指導者だ
    けに限るべきだ。下の者は上の者に従っただけではないか」と
    追放令に反対した。

     しかし、マッカーサーのお墨付きを得たケーディスは、幣原
    内閣の現役閣僚中5人を含め、その後1年半ほどの間に、20
    万余もの有力者を追放した。

     自由党の党首・鳩山一郎も同年4月、戦後初の総選挙で第一
    党となった直後に、首相の座を目前にして公職追放となってい
    る。GHQは口先では「民主主義」を唱えながらも、その実、
    日本国民の総意を無視して、気にくわない政治家を自在に追放
    できる独裁者だったのである。

■6.GHQの示した憲法草案■

     この年の2月13日、ホイットニーとケーディスが外務大臣
    官邸を訪れた。次郎が出迎えに出た。松本国務大臣が作成した
    日本国憲法案を説明し、日米共同で検討するための集まりだと、
    日本側は思っていた。

     松本国務大臣が説明を始めようとすると、ホイットニーはそ
    れを遮って、こう言った。

         先日あなた方から提出された憲法改正案は、自由と民主
        主義の観点からみて、とても容認できるものではありませ
        ん。・・・ここに持参した憲法草案こそ、日本の人々が求
        めているものであるとして、最高司令官(マッカーサー)
        があなた方に手渡すようお命じになったものです。

    「なんと、GHQ側は自ら憲法改正案を用意してきたのか!」
    虚を衝かれた日本側は声も出ない。「やられた! あいつら、
    いつの間にこんなものを用意していたんだ」と次郎は思った。

     これこそ民政局の素人集団が7日間で作成した憲法草案であっ
    た。その中には、「土地その他の天然資源は国有とする」とい
    う規定まであった。「自由と民主主義」どころか、共産主義そ
    のものである。[b]
   
■7.「男には戦わなければならない時がある」■

     外相官邸から戻った松本国務大臣は、事の成り行きを幣原首
    相に報告した。GHQの憲法草案が単なる「提案」なのか、
    「指令」なのかについて探りを入れよう、ということになり、
    次郎は、すぐにその日の午後、GHQにホイットニーを訪ねた。
    しかし次郎が何を言っても、ホイットニーは取り合わなかった。

     次郎は松本の所に戻って、「大臣、向こうはやはり『指令』
    だと考えています。交渉は受けつけそうにありません」と率直
    に言った。「あっさり、あきらめすぎだ」と言わんばかりの松
    本の態度に、むっとしながらも、次郎は「分かりました。もう
    一度やってみましょう」ときっぱり言った。

    「勝ち目がないとわかっていても、男には戦わなければならな
    い時がある」と次郎は腹をくくった。後に次郎は、この時の気
    持ちをこう語っている。

         自分は必要以上にやっているんだ。占領軍の言いなりに
        なったのではない、ということを国民に見せるために、あ
        えて極端に行動しているんだ。為政者があれだけ抵抗した
        ということが残らないと、あとで国民から疑問が出て、必
        ず批判を受けることになる。[1,p150]

     次郎は「手紙を書こう」と思った。言質をとるには文章に限
    る。松本案もマッカーサー案も民主憲法という目的は同じであ
    り、ただ日本の伝統と国情に即した道をとるほうが混乱を招か
    ない、という論旨を次郎は手紙に書いてホイットニーに示した。

     ホイットニーからは翌日、返事が来た。「マッカーサー案の
    目的に賛成するというなら、積極的に推進すればよいではない
    か」という、とりつく島もない文面だった。

     松本は再度、次郎と同趣旨の再説明書を書いて、次郎に持た
    せた。ホイットニーはその再説明書を机にたたき付け、「48
    時間以内にマッカーサー案を受け入れるのかどうか、回答せよ」
    と言って、次郎から背を向けた。何たる屈辱。次郎はこみ上げ
    る怒りに肩を震わせながら部屋を出た。
   
■8.『抵抗したんだ』という事実は残った■

     民政局の強硬な態度に、結局、マッカーサー案をベースにし
    て、新たな日本案を作成することになった。
   
     3月4日、松本大臣、次郎、法制局の専門家などがGHQの
    第一生命ビルを訪れ、松本がマッカーサー草案をベースにした
    日本案を示した。ただちに英訳とチェックが開始された。

     ケーディスは、日本案の一条ごとに文句をつけた。たとえば、
    マッカーサー草案では、天皇の国事行為は"advice and consent"
    としているのを、松本案では「補弼(ほひつ)」としていた。
    「なぜ consent(同意)を省いたのか」とケーディスが質問す
    ると、松本は「もともと天皇は内閣の輔弼がなければ、どんな
    行為もできないことになっている」と、怒りに震える声で答え
    た。

     こんな議論が延々と続くうちに、松本は別の会議があるから
    と、引き揚げてしまった。敵前逃亡である。ケーディスは次郎
    に「今夜中に憲法草案を完成させる」と伝えた。民政局員約
    20名が加わって、日本案を英語にして修正確認し、それを再
    度、日本語にする、という作業が夜通し進められた。

     作業があらかた終わったのが、午前10時。午後2時半頃、
    次郎がそれを官邸に持ち帰って、「やっこさんたちは、今日中
    にこの憲法草案を受諾するかどうか返事を貰いたい、と言って
    きています」と事態が切迫していることを伝えた。

     午後4時半、閣議が開かれた。吉田は「ことここに及んでは
    受け入れるしかない。次郎には悪いが、『抵抗したんだ』とい
    う事実は残った。今回の憲法は独立を回復した後に、我々の手
    で改正すればいい」と考えたが、それは閣僚ほとんどの思いで
    あったろう。

     3月6日、「日本政府による憲法改正案」が公表され、間髪
    を入れずに、マッカーサーは同案への支持を表明した。
   
■9.「ヒソカニ涙ス」■

     この一連の作業の後、次郎は一週間ぶりに自宅に戻って、泥
    のようになって眠った。寝言ながらに「シャット・アップ!
    (黙れ)」「ゲット・アウト!(出て行け)」などと叫んだ。

    「憲法草案」公表の翌日、次郎は次のような手記を書いている。

        斯(かく)ノ如クシテ、コノ敗戦最露出ノ憲法案生(うま)
        ル。「今に見ていろ」ト云フ気持抑(おさ)ヘ切レス。ヒ
        ソカニ涙ス

     後に次郎は、こう書いている。

         この憲法は占領軍によって強制されたものであると明示
        すべきであった。歴史上の事実を都合よくごまかしたとこ
        ろで何になる。後年そのごまかしが事実と信じられるよう
        な時がくれば、それはほんとに一大事であると同時に重大
        な罪悪であると考える。[1,p101]

     次郎の危惧は現実のものとなった。

★人物探訪:白洲次郎(下)~ 日本復興への責任と義務★
   
「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々
   の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務を私は感じる」


■1.「吾々が招いたこの失敗」への「責任と義務」■

     戦後の日本に関して、白洲次郎はこう書いている。

         吾々(われわれ)の時代に馬鹿な戦争をして、元も子も
        なくした責任をもっと痛切に感じようではないか。日本の
        経済は根本からの立て直しを要求しているのだと思う。恐
        らく吾々の余生の間には、大した好い日を見ずに終わるだ
        ろう。それ程事態は深刻で、前途は荊(いばら)の道であ
        る。然(しか)し吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも
        取り返して吾々の子供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義
        務を私は感じる。[1,p270]

     自分たちは被害者だ、軍国主義者に騙された、という風潮が
    支配的な時代において、「吾々が招いたこの失敗」の「責任と
    義務」を主体的に負おうというのが、次郎の生き様であった。

     昭和21(1946)年4月、戦後初の総選挙で自由党が第一党と
    なったが、社会主義政権誕生を目論むGHQ民政局のケーディ
    スらは、党首・鳩山一郎を公職追放処分にしてまで、組閣を阻
    止した。

     そこで鳩山や前首相・幣原に推されて、吉田茂に組閣の大命
    が下った。その吉田にも公職追放の手が伸びていた。その情報
    を掴んだ次郎は、ケーディスの対抗勢力であるウィロビー少将
    と必死に掛け合って、なんとかそれを阻止した。

     首相に就任した吉田は、マッカーサーに会って「日本を赤化
    させるおつもりですか」と迫った。おりしもソ連との冷戦の緊
    張が高まり始めていた時期でもあり、マッカーサーは、GHQ
    内でとくに「赤い」と目されていた局員を大方帰国させる措置
    をとった。

     米国内では日本を防共の盾とする議論も出てきて、占領方針
    も民主化から経済復興へと力点が移りつつあった。ようやく次
    郎の「責任と義務」を果たす機会が訪れてつつあった。

■2.経済安定本部次長■

     昭和21(1946)年12月、次郎は経済安定本部(後の経済企
    画庁)次長を兼任することになった。半年ほど後に、蔵相・石
    橋湛山が経済安定本部長官兼任となった。石橋も気骨ある人物
    で、GHQ経済科学局の幹部を相手に丁々発止とやりあった。
    しかし、この石橋も任期途中で公職追放となってしまう。

     石橋は軍部を批判して、満洲を放棄し、朝鮮・台湾を独立さ
    せよ、と主張した人物である。そんな人物までGHQは公職追
    放したのだった。

     経済・財政面で石橋を頼りにしていた吉田は、経済学者たち
    をブレーンとすることで、事態を打開しようとした。その根回
    しに次郎が走り回った。目をつけた一人が東京大学経済学部教
    授の有沢広巳(ありさわ・ひろみ)である。しかし、教授が政
    府のブレーンになるというのは一般的でない時代のことである。
    有沢は、次郎が何度頼み込んでも一向に首を縦に振らない。

     そこで次郎が考え出したのが、吉田を囲む週一回の昼食会に
    何人かの著名な経済学者とともに参加して貰う、という方法で
    ある。これにはさすがの有沢も断れず、吉田を囲んでの議論に
    加わった。

     この席で有沢が披露したのが、傾斜生産理論である。限られ
    た資金・資源をまず石炭の増産に集中し、この石炭を鉄鋼生産
    に集中投下するという方法で、これにより生産が急回復し始め、
    復興の起爆剤になった。

■3.民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者■
   
     昭和22(1947)年年頭、深刻な食料事情の中で頻発している
    労働争議やストライキを沈静化させるべく吉田はラジオで国民
    に呼びかけた。しかしその中で「私はかかる不逞の輩(やから)
    が国民中に多数ありとは信じませんぬ」と口を滑らした。これ
    が労働組合などを刺激して、世情騒然となった。

     GHQ民政局は吉田降ろしの好機と見て、マッカーサーを動
    かし、総選挙を命じた。やむなく吉田は議会を解散して総選挙
    に踏み切ったが、「不逞の輩」発言で支持率が急降下しており、
    片山哲率いる社会党に第一党の地位を奪われてしまった。

     片山は単独では政権を担う自信がないので、自由党からも閣
    僚を送って貰いたいと申し出たが、吉田はきっぱりと断った。
    「主義主張を異にする両党が連立するのは、政党政治の本領に
    反する」と言って、野に下ったのである。

     片山内閣で農相となった平野力三は吉田に近い人物だったの
    で、ケーディスは強引に公職追放にしたが、平野派40名の支
    持を失った片山内閣は総辞職に追い込まれてしまった。ケーディ
    スは肝いりの社会党内閣を、自らの強引な追放措置で潰してし
    まったのだった。

     ケーディスは、その後も政権を野党第一党の自由党に渡さず、
    民主党総裁の芦田均を首相に据えた。ケーディスはいよいよ、
    民主主義も憲政の常道も完全に無視した独裁者となっていった。
   
■4.ケーディスとの最終決着■

     怒り心頭に発した吉田と次郎は、参謀第2部のウィロビーと
    共闘して、ケーディスの追い落としを図った。

     おりしも、昭和電工が大規模な贈賄を行って、復興金融金庫
    からの融資を引き出している、という疑惑が浮上していた。社
    長の日野原は、前社長が吉田やウィロビーに近い人物だったた
    めに公職追放とし、ケーディスが新たに送り込んだ人物だった。

     次郎やウィロビーはケーディスの身辺調査を行い、彼にも多
    額の現金が渡ったという情報を新聞に流して、しきりに報道さ
    せた。ケーディスの影響力は急速に低下していった。

     芦田内閣そのものも、この昭和電工の贈賄事件により、わず
    か7カ月で総辞職に追い込まれた。次郎はウィロビーと共闘し
    て、マッカーサーから、「GHQの総意としては吉田首相で問
    題なし」という確約を得た。吉田は衆議院で多数を得て、昭和
    23(1948)年10月に第2次内閣を発足させた。

     ケーディスはなおも吉田内閣を潰そうと画策したが、吉田は
    国会を解散して、民意を問うた。翌年1月の総選挙では吉田率
    いる民自党(自由党と民主党の一部が合同)が圧勝し、第一党
    だった社会党は143議席から48議席へと激減、党委員長の
    片山まで落選の憂き目を見た。

     ケーディスは失意のうちにアメリカに帰国した。こうして日
    本に社会主義政権を作ろうとする陰謀は未然に防ぐことができ
    たのだが、その陰には次郎の奮闘があったのである。
   
■5.経済復興のための大抜擢人事■

     傾斜生産方式が奏功し、我が国の鉱業生産は戦前の5割程度
    まで回復していたが、GHQ財政顧問として来日したジョゼフ
    ・モレル・ドッジはインフレを沈静化するために、復興重視の
    政策を超均衡財政に転換しようとした。

     次郎は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策が発表された時、
    これまでの努力がすべて水の泡になるのではないかと危惧した。
    ドッジに対抗するためには、経済理論に明るく、押しも強い人
    物を大蔵大臣につけなければならない。そうした人物を求めて、
    次郎は東奔西走した。

     そして見つけたのが、前大蔵省事務次官の池田勇人(はやと)
    だった。吉田は昭和24(1959)年1月の総選挙で、池田を立候
    補させ、当選すると一年生議員にもかかわらず大蔵大臣に大抜
    擢した。当選回数を重ねた議員から囂々(ごうごう)たる不満
    が噴出した。しかし池田は期待通りの活躍を見せた。ドッジと
    も何度も渡り合って、深い信頼関係を築いた。

     池田は昭和34(1959)年に首相となるが、天才的なエコノミ
    スト下村治をブレーンとして、10年間でGNP(国民総生産)
    を2倍にするという「所得倍増計画」をスタートさせ、高度成
    長を実現していく。[a]
   
■6.「新しい貿易庁を作る!」■

     昭和23(1948)年12月1日、次郎は吉田首相から商工省の
    外局である貿易庁の長官に任命された。次郎は以前から、輸出
    産業を育成し外貨獲得を図るために、商工省を改組してもっと
    強力な組織を作る必要がある、と主張していた。そこで吉田か
    ら「じゃあ、お前やってみろ」と言われたのである。

     商工省は多くの優秀な役人を抱える巨大組織である。それを
    変革するのは、よほどの信念と実行力を持った人物が必要であ
    る。それには次郎しかいない、と吉田は見込んだのである。

     次郎はまず味方にすべき人物を捜した。そこで目をつけたの
    が商工省物資調整課長の永山時雄であった。まだ若かったが省
    内随一の切れ者として名が通っていた。

     次郎は永山を呼んだ。ちょうど、永山の方も商工省の事務次
    官から次郎の動向を探るように依頼を受けていたので、敵情視
    察のつもりだった。その永山に対して、次郎にしては珍しく熱
    弁を振るった。

         今の日本にとってもっとも重要なことは、輸出産業を振
        興させて外貨を獲得し、その外貨でさらに資源を購入して
        経済成長にはずみをつけることだ。ところがこれまでの商
        工省の施策は国内産業の育成が中心だった。これからは、
        貿易行政があって産業行政があるというふうに180度考
        え方を変えていかなければならない。だから、、、

     と息をついで、一気に言い切った。

         占領下で動きのとれない外務省も、軍需省の尻尾をひき
        ずる商工省も、ともに潰して新しい貿易庁を作る!

     永山は全身に鳥肌がたった。純粋に国を思う情熱、先例や常
    識をかなぐり捨てた構想の合理性、先進性。この日を境に永山
    は次郎の信奉者となった。
   
■7.通商産業省の誕生■

     次郎は、永山に「通商産業省(仮称)設置法案」をまとめさ
    せ、翌24(1959)年2月8日に閣議決定に持ち込んだ。就任後、
    わずか2カ月ほどのスピードで、役人たちには反撃の隙も与え
    なかった。

     商工省からは、せめて名称を「産業貿易省」にしてくれ、と
    言ってきた。国内産業重視の看板を下ろしたくない、という最
    後の抵抗である。しかし、次郎は「貿易より産業が先にきてい
    るような名前はダメだ!」の一言。さらに通産省内のすべての
    局に「通商」という名前をつけさせて貿易重視の意識改革を徹
    底した。

     同年5月25日、通商産業省が誕生した。貿易庁から引き継
    ぎにきた事務官に対し、次郎は「引き継ぎするものなど何もな
    い。お前らは通産省を貿易庁の後身だと思っているのか。過去
    は振り替えらんでいい。これからまったく新しい行政を始める
    んだ」と言って、一切の引き継ぎを拒んだ。

     そして通産省の次官や局長には、次郎が目をつけた優秀な官
    僚を配置して、立ち上げを確固たるものにした。その上で、自
    分はさっと身を引いてしまったのが、次郎らしい無私な所であっ
    た。

     この後、通産省は日本経済の「参謀本部」として高度成長に
    向けて牽引していく。
   
■8.「何だこれは! 書き直しだ」■

     昭和26(1951)年9月、吉田茂は講和条約に調印すべく、サ
    ンフランシスコに向かった[b]。次郎も顧問として随行した。
    調印式の後には吉田による受託演説が予定されていたが、吉田
    はその二日前に、次郎に演説草稿のチェックを頼んだ。

     外務省の役人が持ってきた草稿を一目見るなり、次郎は渋面
    を作った。英文だったからである。「日本人は日本語で堂々と
    やればいいじゃないか!」

     内容も問題だった。占領に対する感謝の言葉が並んでいて、
    まるでGHQに媚びているような文面である。

        「何だこれは! 書き直しだ」

        「ちょ、ちょっと待ってください。事前にGHQ外交部の
        シーボルト氏やダレス顧問にチェックしてもらったもので
        すから、勝手な書き直しなんかできませんよ」

        「何だと! 講和会議でおれたちはようやく戦勝国と同等
        の立場になれるんだろう。その晴れの日の演説原稿を、相
        手方と相談した上に相手国の言葉で書くバカがどこの世界
        にいるんだ!」

■9.ウィスキーのグラスをあおりながら■

     次郎はサンフランシスコのチャイナタウンで和紙の巻紙を買
    い求めさせ、毛筆で書き始めた。

     懸案である奄美大島、琉球列島、小笠原諸島の返還にも言及
    した。外務省の役人は必死に止めようとしたが、次郎は
    「GHQを刺激するから触れるなだと。バカヤロー、冗談を言
    うな」と一喝した。「小笠原や沖縄の人々の気持ちにもなって
    みろ」という思いだった。

     草稿は吉田の演説直前にできあがった。長さは約30メート
    ル、巻くと直径10センチほどになった。ぶっつけ本番となっ
    たが、吉田は悠揚迫らぬ態度で読み上げていった。

     日本の新生を世界に報ずる一大イベントも無事に終わった。
    次郎はマーク・ホプキンス・ホテルの自分の部屋のソファーに
    身を沈めた。早いピッチでウィスキーのグラスをあおりながら、
    次郎は泣いていた。

     敗戦後、わずか6年だったが、いろいろな事があった。屈辱
    的な憲法改正、赤いGHQ将校たちとの死闘、そして通産省創
    設など経済復興への段取り。

    「吾々が招いたこの失敗を、何分の一でも取り返して吾々の子
    供、吾々の孫に引き継ぐべき責任と義務」の幾分かは果たせた
    のである。サンフランシスコの夜は静かに更けていった。

      ★ 国際派日本人養成講座 (伊勢雅臣氏)より転載

=========================== 

 ●「われわれは戦争に負けたのであって奴隷になったのではない!」(本人)

 ●「従順ならざる唯一の日本人!」(GHQ)

 ●「葬式無用、戒名不用」(遺言書)

 NHKのドラマを観て、書籍を読んだ。

 つい最近まで、すごい侍日本人がいたんだ。

 いま、日本があるのは、高い理念と信念を持った

こういう方々のお陰なんだね。

 さて、さて、私の役割は あなたの役割は

 http://www.youtube.com/watch?v=OSmVoM2atVk

 http://www.youtube.com/watch?v=vJdVvXv87j0

 http://www.youtube.com/watch?v=fVKW7JRk8Sg&feature=related

 http://www.youtube.com/watch?v=bY5qo7pz1jU&feature=related

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コメント

いんこは本当に近現代史に興味があるね。
歴史はもちろん大事だが・・・
そろそろ、自分にDNAがあることを、
素直に感じる時だよ。。。

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