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2009年6月 5日 (金)

二宮金次郎と「積小為大」

二宮金次郎の農村復興事業が、日本人の勤勉な国民性を形成した。

■1.「学者につきあっている暇はない」」■

   天保10(1839)年6月1日、相馬藩(現在の福島県相馬市)
   藩士の富田高慶(こうけい、26歳)は、二宮金次郎に弟子入
   りを頼もうと、やってきた。

   富田は相馬藩の財政難を救いたいという志を持って、江戸に
   出て儒学を学び、数年にして師の代講ができるほど学業は進ん
   だ。しかし、相馬藩の財政問題を解決できるような実践的な教
   えには出会えなかった。

   そんな時、金次郎が村々の復興に着々と成果を上げていると
   聞き及び、「それこそ自分の求めている師に違いない」と身の
   周りを整理して、金次郎のもとを訪れたのである。

   しかし、金次郎は「儒者や学者に会う必要はない」とにべもな
   かった。「自分は荒廃した農村を復興し、衰亡していく農家を
   救うのに忙しいのだ。理屈屋の学者につきあっている暇はない」
   と会ってもくれなかった。その後、数日おきに4度も訪問した
   が、面会を許されなかった。それでも富田はあきらめることな
   く、近くの村に漢学の寺子屋を開き、それで生計を立てながら、
   面会の機会を待ち続けた。

   待つこと4か月。ついに金次郎もその熱意に打たれて「それで
   は会ってみようか」と初対面が実現し、その場で入門を許した。
   金次郎がなかなか面会を許さなかったのは、相手の真剣さを試
   すためであった。

■2.相馬藩の財政破綻■

   相馬藩はもともと禄高は6万石、226カ村に人口8万人を
   抱える藩だった。藩は山野の開墾を奨励し、農民たちも豊かに
   になった。そこで相馬藩は検地をし直して、新たに開墾された
   3万8千石にも年貢を課した。

   収入が増加したので、藩財政も放漫となった。一方、農民は
   農地開墾の意欲を失い、ひいては日々の農作業への志気も低下
   して、収穫は減少していった。藩は不足する収入を借金でまか
   ない、その利子払いのために課税を増やし、ますます農民は窮
   乏する、という悪循環に陥っていた。

   そこに天明の大飢饉が襲いかかり、領民人口は餓死、離散に
   より半減した。藩の借金も30万両を超えた。そこで藩主・相
   馬益胤(ますたね)は、草野正辰(まさとき)と池田胤直(た
   ねなお)の二人を家老に抜擢して、藩の復興を命じた。

   二人の家老は藩の経費を大幅に削り、年貢米を引き下げ、ま
   た用水路の補修などを通じて、生産の回復に努めた。こうした
   努力が10年続き、ようやく復興が軌道に乗り始めた頃、今度
   は天保の大飢饉が襲いかかった。米の出来高は10分の一以下
   に激減した。

   藩は備蓄米を放出し、また藩外から米を買い集めて、なんと
   か領民を救ったが、藩財政は振り出しに戻ってしまった。この
   危機に藩主の座を継いだのが、嫡子・充胤(みちたね)だった。
   充胤は幼少の時から草野の手できびしく教育され、賢明な人物
   に育っていたが、いかんせん、まだ若く経験がない。一方、草
   野は70歳、池田も50歳を超え、これから藩を引っ張って行
   くには年を取りすぎていた。

   26歳の富田高慶が藩の危機を憂えて、金次郎の許を訪れたの
   は、こうした時だった。

■3.「そもそも相馬藩には分度が確立しておるのか」■

   富田は金治郎の人物に接して、「相馬藩を救うには、二宮先
   生の力によるほかはない」と確信し、草野、池田の両家老に報
   告した。二人とも非常に喜び、「ぜひ二宮先生に藩政再建をお
   願いしよう」と決心した。藩主もすぐに賛成して、郡代の一条
   七郎左右衛門を金次郎のもとに派遣した。

   富田が一条と会ってくれるよう頼むと、金次郎は「多忙である
   から、そのような暇はない」と断った。

       藩の基本に関するものは、藩主みずからが行うべきもの
       である。藩主が本当にやる気があるなら、藩主が教えを聞
       きに来るべきである。しかし、藩主がみずからというわけ
       にはいかないとすれば、藩政の責任者(家老)がやって来
       るべきではないか。郡代の一条殿では、藩政の責任者だと、
       わたしは認めない。一条殿はわたしから復興の対策を聞き
       たいのであろうが、わたしの言いたいのはそのような方法
       論ではなく、藩政の基本方針である。そもそも相馬藩には
       分度が確立しておるのか。[1,p384]

   「分度」とは、藩の実収入から、返すべき借金の利子などを差
   し引いて、残った額である。藩の経費を身の丈にあった分度ま
   で切り詰め、借金を返済しながら、剰余金が出れば領内の復興
   事業に充てる、というのが、金次郎のアプローチであった。た
   だ藩全体が何年も分度内で切り詰めた生活をするには、非常な
   覚悟がいる。金次郎は、その覚悟のほどを見極めたかったので
   ある。

   富田が「とても分度を決める段階にまで行っていない」と答
   えると、金次郎は「分度も決まっていないのに会う必要はない」
   と突っぱねた。富田がこれを一条に伝えると、「二宮先生のお
   考えがそのように深いとも知らず、簡単に考えていて恥じ入る
   ばかりです」と、金次郎に会えないまま、国許に報告に帰った。

■4.「小さなものを積み上げて、大きなものにする」■

   翌年、江戸詰め家老の草野が、金次郎を訪ねた。草野が藩内の
   数千町歩の荒地を開墾するにはどうしたら良いかと聞くと、金
   次郎はこう答えた。

       それは小さなものを積み上げて、大きなものにする、そ
       れしか方法がありません。また、それが一番いい方法なの
       です。いま日本の国には何億何万町歩という田畑がありま
       すが、これも一鍬(くわ)一鍬、耕し、それを積み上げた
       ものです。一鍬一鍬積み重ねて怠らなければ、何万町歩の
       荒地といえども開発可能です。[1,p387]

   「小さなものを積み上げて、大きなものにする」、これが金次郎
   の「積小為大」の思想であった。

   草野は感激し、「これからはその教えにしたがって、相馬藩
   の復興に生命をかけよう」と固く心に誓った。

   しかし、国許では余所者の金次郎に頼ることへの反対が強かっ
   た。「わが相馬家は、代々この地を治めて6百年になり、その
   間に盛衰はあったが、一度も他から力を借りたことはない」と
   いう誇りからだった。

   国許家老の池田胤直が熱心に家臣たちに説いたが、それでも
   納得しないものが多かった。家中の意見がなかなか一致しない
   のを見るに見かねた藩主・相馬充胤は「凡人はいつも目の前の
   ことにこだわって、事の本質が見抜けない。いつまでもそんな
   者の意見にこだわっている必要はない」と断じ、国許家老の池
   田を江戸に呼び寄せて、「二宮先生の教えにしたがい、草野と
   力をあわせて相馬藩の復興を推進するように」と強く命じた。

■5.60年に渡る復興計画■

   両家老は一緒に金次郎に会い、改めて「分度」の確立の大切
   さを理解した。二人の報告を聞いた藩主は、さっそく自筆で依
   頼書を書き、両家老がそれを金次郎のもとに届けた。金次郎は
   その書を読んで、「藩主の相馬公がこのように仁の心が厚く、
   忠臣が多ければ、藩の復興はまちがいない」と嘆賞した。

   草野は分度の確立のために、過去188年間の財政資料を調
   べ上げた。最初の60年は14万俵の租税収入があったが、そ
   れが直近の60年にはその半分以下に落ち込んでいた。

   金次郎はこの調査から、今後10年を復興第一期とし、その
   間の分度を6万6776俵と定めた。それ以上の租税収入は領
   内復興の費用にあてて増産を図り、その結果を見て11年目以
   降の第2期からの分度を見直す。これを繰り返して、60年で
   藩政復興を計るという雄大な計画だった。

   この計画書を見て、反対してきた家臣たちも、初めて賛意を
   表した。分度以上の収入は、復興資金として特定の村に注ぎ込
   む。これを模範村として、10年かけて徐々に増やしていく。

   その模範村として名乗りを上げたのが、宇陀郡の成田村と坪
   田村だった。この2カ村の代官助役をしていた高野丹吾は、今
   まで両村の復興に力を尽くしていたが、金次郎の話を伝え聞い
   て、村民たちに呼びかけた。両村の名主をはじめ村人も大賛成
   だった。

   高野は両村の戸数、田畑・荒地の面積、村民の貧富の度合い
   などを調査し、復興事業嘆願書をまとめて、国許家老の池田に
   差し出した。池田は喜び、「さっそく高野自身が江戸に行って、
   二宮先生にお願いするように」と命じた。

   高野は江戸家老・草野に連れられて、金次郎に会った。金次
   郎は「成田村、坪田村が、そのように率先して誠意を示してき
   たのは賞賛すべきことである。では、さっそくこの両村から始
   めよう」と、答えた。そして、金次郎は多忙でとても相馬には
   いけないので、富田高慶を代理の指導役として派遣した。

■6.「村民みずからが積極的に動かなければ駄目なんだ」■

   富田と高野は、成田村の村民一同を集めて、復興事業の計画
   をくわしく説明した。その開始にあたって、まず勤勉な者12
   人を投票で選び、表彰した。さらに屋根の傷みのひどい家を投
   票で3軒選び、修繕をした。坪田村でも同じ事をした。

   こうした動きに、両村の村民たちは感激し、今までの怠惰の
   風は一気に改まった。これまでは正月は半ば頃まで、酒興にお
   ぼれ、遊びほうけていたのが、この年は正月2日から縄ないを
   始め、4日からは山野に入って薪をとり、柴を刈り、農作業を
   始めていた。

   さらに富田は村人を指揮して、道路、橋、用水路の修復、そ
   して荒地の開墾に着手した。村人たちは希望に満ちて、再建事
   業に邁進した。

   この復興のための資金は、藩主や両家老、代官たちが拠出し
   合ったものだった。富田も藩から給与されていた旅費などを節
   約して貯蓄していた20両を出した。高野も父兄を含め、14
   両を拠出した。

   2年目以降なら、分度以上の収入を復興費用に充てることが
   できるが、最初の年はこれがないため、自発的な拠出に頼った
   のである。金次郎も2百両もの巨額の資金を出した。金次郎が
   日頃から倹約を説いていたのは、こういう時に使うためであっ
   た。

   成田村、坪田村の復興運動が活発に動き出すと、その評判は
   四方に広まり、他村の人々も「復興事業というものは、上から
   の指示を待っているだけでは駄目で、村民みずからが積極的に
   動かなければ駄目なんだ」と悟った。そして、みずから米や金
   を復興資金として供出して、復興事業の開始を誓願する村が増
   えてきた。

   金次郎は「大きな事業をするには、急いではならない。数十カ
   村を一時に行えば、どれも中途半端になり、失敗してしまう」
   と反対したが、各村の熱心さに負けて、7カ村だけ追加した。

■7.27年間続けられた復興事業■

   第一期は計9カ村で復興事業が進められたが、いずれも10
   年のうちに、村の荒廃は治まり、負債なども整理されて、饑饉
   用の備蓄ができるまでに復興した。この9カ村の復興は、他の
   村々にも良い刺激となり、領内全体でも荒地の開発が進んで、
   収穫高も増えた。

   そこで金次郎は第2期の分度を6万6776俵から7万俵へ
   と引き上げた。5%ほどのわずかな増額だったが、10年間我
   慢していた家臣たちの給与も増え、みな金次郎の復興事業に納
   得した。

   相馬藩第一期の復興計画の成功を、金次郎は次のように評して
   いる。

       相馬藩の復興事業は、わたしは幕府の仕事が忙しくて、
       一度も相馬の地に行くことが出来ず、江戸や桜町から指揮
       するだけであった。それなのに第一期の復興計画が見事に
       成功し、藩内が一変するほどの成功を治めたのは、君臣、
       領民が一体となって勤めたからである。今後もこのまま復
       興計画を実行していけば、やがて藩全体の復興は間違いな
       く達成されるであろう。 [1,p409]

   相馬藩の復興は、金次郎個人の智慧や力というよりも、金次
   郎の教えが核となって、藩主、両家老、富田、高野、そして大
   勢の村民たちの世のため人のために尽くそうという心が一つに
   なって実現したものであった。

   安政3(1856)年、金次郎は70歳にて世を去ったが、復興事
   業の第2期がそのまま始められた。慶応2(1866)年までの十年
   に、93カ村が復興された。続いて第3期が始まったが、明治
   維新によって中断した。

   合計27年間の復興事業で、開墾田畑1379町歩、堤防や
   堰工事100余箇所、溜池工事692カ所などが行われ、人口
   も2万1715人増加している。まさに積小為大の効果である。

■8.二宮金次郎と日本人の国民性■

   明治4(1871)年、廃藩置県が行われたが、家老となっていた
   富田高慶は440余戸の氏族に、荒地を開いた田畑一町歩ずつ
   支給して帰農させたため、無事に乗り切ることができた。

   富田は、明治10(1978)年に民間団体『興復社』を設立し、
   開墾事業を続けた。明治12(1980)年には、皇室が二宮金次郎
   の功を賞して、孫の金之丞に金百円を下賜された。同時に富田
   を正7位に叙し、また興復社の事業資金として金1万5千円を
   貸し下げられ、その事業を支援された。興復社により開墾され
   た田畑は千余町歩に上る。

   富田高慶の著した金次郎の伝記『報徳記』は、明治13
   (1981)年に、明治天皇に献上された。いたく感銘を受けられた
   天皇は、宮内庁に『報徳記』の勅版を発行させ、全国の知事以
   上に配布させた。

   晩年の明治天皇は「銅像二宮金次郎」を座右に置いて、愛玩
   されていたという。薪を背負い、本を読みながら歩く少年の姿
   だが、薪は勤勉の心を、本は向上心を表している、という。こ
   うした明治天皇の後押しもあって、二宮金次郎の精神は、日本
   人の国民性を形成していったのである。

 (国際派日本人養成講座より引用)

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