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2009年6月27日 (土)

武士が作った国民国家 !

『新編 新しい歴史教科書』を読む:武士は、日本の独立を守るために、自らの階級を消滅させて、近代国民国家を作った。

 

■1.武士階級が自らを消滅させた明治維新■

   フランスの日本文化研究者モーリス・パンゲは、著書『自死
   の日本史』で、次のように述べている。

       日本の特権階級であった武士は、他の階級によって倒さ
       れたのではありません。外国の圧力の前に、みずから革命
       を推進し、そのためみずからを消滅させるという犠牲を払っ
       たのです。革命といっても、それはある階級が他の階級を
       倒すという、普通の意味の革命ではありません。武士たち
       の望みは、日本という国の力をよびさますことだったので
       す。

   この一文を引用しながら『新編 新しい歴史教科書』(『日
   本人の歴史教書』[1]に全編収録)は、次のように述べている。

       明治維新によって身分制度は廃止され、四民平等の社会
       が実現した。職業選択の自由がおおやけに認められ、自由
       に経済活動ができるようになった。武士の特権は廃絶され、
       武士身分そのものが消滅した。

       明治維新は、ヨーロッパの革命、とくにフランス革命の
       ように、市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命ではなかっ
       た。武士身分を廃止したのは、ほかならぬ武士身分の人々
       によって構成されていた明治新政府だった。

■2.公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たち■

   従来の歴史書では、たとえば、

       わが明治維新も、この(JOG注:フランス)革命の遠隔作
       用のもとになしとげられたと言える。しかし、この偉大な
       革命の真価が日本人に理解されるまでには、長い年月が必
       要であった。

   などと述べているように、進んだ西洋を遅れた日本が追随して
   いく、という西洋崇拝型の歴史観だった。

   しかし、同じく階級を廃止して、国民国家を創ったと言って
   も、「市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命」と、武士階級
   が「みずから革命を推進し、そのためみずからを消滅させ」た
   のとでは、本質的に異なる。その違いが、フランス革命での犠
   牲者2百万人と明治維新での2~3万人との差に表れている。

   従来の西洋崇拝史観から脱却して、日本文明の特長をも踏ま
   えた、まさに『新しい歴史教科書』ならではの視点である。

   モーリス・パンゲの引用の後はこう結ばれている。

       明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えて
       いた武士たちによって実現した改革だった。

   国民国家の形成は、多くの国に見られる現象だが、特権階級
   が自らを消滅させて、それを成し遂げたという例は、我が国以
   外の例を知らない。そしてそれを成し遂げたのが、武士たちの
   「公のために働く」という使命感だった。これを武士道と呼ん
   で良いだろう。この武士道が近世以降の日本文明を支えた大き
   な柱なのである。

   今回は『新しい歴史教科書』に沿って、武士道が我が国に生
   まれ、それがついには自らを犠牲にして、明治日本を建設した
   過程を辿ってみたい。

■3.統治と治安維持を役割として生まれた武士階級■

   階級として武士と百姓・町人を分ける身分制度は、秀吉の
   「刀狩り令」を一つの源とする。誰でもが武装していた戦国の
   世に、秀吉は「刀狩り令」を発して、農民から刀や弓、槍、鉄
   砲などの武器を没収した。これによって農民を耕作に専念させ、
   平和な社会秩序を作ろうとしたのである。

       秀吉の刀狩りは、戦乱を抑える効果をもたらしたが、徳
       川幕府はその方針を受け継ぎ、武士と百姓・町人を区別す
       る身分制度を定めて、平和で安定した社会をつくり出した。
       武士は統治をになう身分として名字・帯刀などの名誉をも
       つとともに、治安を維持する義務を負い、行政事務にも従
       事した。

       こうした統治の費用を負担し、武士を経済的に養ったの
       が、生産・加工・流通にかかわる百姓と町人だった。この
       ように異なる身分の者どうしが依存しあいながら、戦乱の
       ない江戸時代の安定した社会を支えていた。ただし、武士
       と百姓・町人を分ける身分制度は、かならずしも厳格で固
       定されたものではなかった。

   階級制度というと、搾取し、搾取される階級対立をすぐに連
   想してしまうのは、マルクス主義の遺した先入観だろう。武士
   は治安を維持する役割として名字帯刀を許され、農民や町人の
   治めた税を俸禄として生計を立てる。これは今日の自衛官や警
   察官が国防と治安維持のために武装を許され、国家公務員とし
   て俸給を得るのと同じである。

   武士が搾取階級でなかったことは、江戸時代の経済発展に追
   随できなかった大名以下、ほとんどの武家が商人から借金に頼っ
   てなんとか家計を維持していた事実からも、窺うことができる。
   フランス革命当時の貴族や、現代中国の共産党幹部のような本
   物の搾取階級であれば、好きなだけ農民や商人から富を収奪で
   きるから、借金に悩む必要などないのである。

■4.「忠義」とは「公のために働くこと」■

   武士を統治階級とする江戸幕府の制度は、250年もの長い
   平和の時代をもたらした。これ自体が世界史の一つの奇跡
   と言える。

 

   この平和により、経済が大いに発展し、ついには金銭万能と
   いう思潮が広まった「花の元禄」時代に、衝撃を与えたのが、
   赤穂事件であった。主君への忠義を晴らすために、自らの命を
   捨てた武士たちの行動は、昔ながらの武士道を思い出させた。
   この事件は『忠臣蔵』として、歌舞伎などの題材となり、今日
   にいたるまで日本人に武士道を思い起こさせる物語となってい
   る。

   武士道には、勇気、惻隠(なさけ)、克己(自制)、名誉、
   質素、正直などさまざまな徳目が含まれるが、その最大の特徴
   は忠義の観念である。この点を『新しい歴史教科書』はこう説
   いている。

       忠義とは主君に対してまごころをもって仕えることであ
       る。忠義は強制されたものではなく自発的なものでなけれ
       ばならず、時には主君のために命を捨てる覚悟が必要だっ
       た。

       しかし、忠義とは主君個人のためだけでなく、主君をふ
       くむお家の安泰のために尽くすことだったから、たとえ主
       君の命令でも、間違っていると思ったときは、どこまでも
       間違いを正そうとするのが忠義の道であるとされた。
           ・・・

       のちになって幕末に日本が外国の圧力にさらされたとき、
       武士がもっていた忠義の観念は藩の枠を超えて日本を守る
       という責任の意識と共通する面もあった。このような、公
       のために働くという理念が新しい時代を用意したともいえ
       る。

■5.欧米勢力の圧力■

   18世紀の末頃から、日本の周辺に欧米諸国の船が出没する
   ようになった。たとえば、寛政4(1792)年にロシア使節ラック
   スマンがやってきて通商を求めたが、幕府が拒絶すると、樺太
   や択捉(エトロフ)島にある日本の拠点を襲撃したので、ロシ
   アに対する警戒感が高まった。

   また、清が英国からのアヘン輸入を禁止すると、英国は1840
   年に軍艦を派遣して戦争をしかけ、清を屈服させて、半ば植民
   地同然に扱うようになった。この情報は日本にもたらされて、
   大きな衝撃を与えた。

   外からの圧力のから国を守るために、武士たちの忠義の対象
   も、藩から国家全体へと拡大していった。これが尊皇攘夷運動
   となっていく。地方分権的な幕藩体制を改めて、皇室を中心と
   した強力な統一国家を作り、欧米勢力の侵略を打ち払おう、と
   いうものである。

       ペリーが来航し開国を要求してから、わずか15年後に
       徳川幕府は滅亡した。朝鮮の李朝は、欧米列強が押し寄せ
       てきてからも44年続いたし、清朝は72年もたおれなかっ
       た。これらに比較すると、日本の徳川幕府は、非常に短い
       期間で薩摩藩や長州藩などの勢力によってたおされたこと
       になる。これはどうしてなのだろうか。

       李朝や清朝では、試験制度によって全国の優秀な人材が
       中央に集められた。皇帝や国王が強大な力を持つ反面、地
       方の対抗勢力は弱かった。これに対し日本では、各地の藩
       で多くの人材が養成された。これはのちに幕府をたおす強
       い原動力となった。

       また、日本には、皇室という制度があり、全国の武士は、
       究極的には天皇に仕える立場だった。皇室には政治の実権
       はなかったが、権威の象徴であり続けた。そのため、列強
       の圧力が高まると幕府の権威はおとろえたが、幕府にかわっ
       て、あらためて皇室を日本の統合の中心とすることで、政
       権の移動がスムーズに行われた。

   各地に「忠義」の観念を持つ武士たちがいたからこそ、幕藩
   体制から近代統一国家への大転換が一挙に進んだのである。

■6.廃藩置県■

   新政府はスタートしたものの、いまだ実態は諸藩の連合体で
   あり、実質的な統一が急務であった。

       1871(明治4)年、大久保利通ら新政府の指導者たちは、
       全国の藩を一挙に廃止する改革についてひそかに相談を始
       めた。そして、薩摩・長州・土佐の3藩から集められた天
       皇直属の約1万の御親兵を背景に、7月、東京に滞在して
       いた元藩主たちを皇居(もとの江戸城)に集め、天皇の名
       において廃藩置県の布告をいい渡した。

       廃藩置県は、分権的な制度である藩を廃止し、中央集権
       制のもとでの地方組織である県を置くことであり、藩に残
       されていた軍事と徴税の権限も新政府のものとなった。      

   新政府は藩の反乱を恐れていたが、予想に反して、大きな混
   乱は起こらなかった。藩を廃止することは、武士たちが失業す
   る事を意味していた。その俸禄も、しばらく新政府が肩代わり
   して給付した後に、廃止された。

■7.四民平等と徴兵令■

   次の段階は、武士階級そのものを否定し、農民や町人と同じ
   「国民」にする事だった。

       いっぽう政府は、四民平等をかかげ、人々を平等な権利
       と義務をもった国民にまとめあげていった。まず、従来の
       身分制度を廃止し、藩主と公家を華族、武士を士族、百姓
       や町民を平民とした。そして平民も名字をつけることを許
       し、すべての人の職業選択、結婚、居住、旅行の自由を保
       障した。

   明治政府は、武士階級をなくし、その国防の役割を全国民が
   担うようにした。

       1873(明治6)年には徴兵令が公布された。20歳に達し
       た男子は、士族・平民の区別なく、すべて兵役に服するこ
       とになった。徴兵令は、西洋の制度を取り入れて、四民平
       等の考えにもとづく国民軍をつくる改革だった。

       江戸時代までは、武器を帯びて戦うのは武士に限られて
       いたが、これは武士の名誉であり、特権でもあった。国民
       に平等な義務を課す徴兵制は、士族からは特権を奪うもの
       として反発を買い、平民からは一家の労働力を提供する負
       担が苦痛であるとして、初期のころはいろいろな不安を生
       んだ。

   武士の俸禄をなくしても大きな混乱は起こらなかったが、公
   のために戦う「特権」を奪われることは、反発を招いた、とい
   う点に、当時の武士たちの誇りを見ることができる。

   階級としての武士は消滅したが、その武士道は国民全体に広
   がった。日露戦争はまさに国民全体が、自らの国を守るために
   立ち上がった戦いであった。

■8.「日本の真の再生を促す力」■

   このような国民国家の建設に中心的な役割を果たした一人が
   伊藤博文である。幕末の長州藩で、武士よりも身分の低い足軽
   の子として育ったが、吉田松陰の松下村塾で学んだ。

       ・・・生前の彼が語った言葉に、次のようなものがある。

       「酒を飲んで遊んでいるときでも、私の頭から終始、国家
       の2字がはなれたことはない。私は子孫のことや家のこと
       を考えたことがない。いついかなる場合でも、国家のこと
       ばかりだ」。伊藤の活躍を支えたのは、まさにこの「国を
       思う心」だった。

   この「国を思う心」こそ、武士道の「忠義」である。こうし
   てひたすらに「国を思う」武士たちが、西洋諸国の圧力を前に、
   国内体制の一挙変革を図り、近代国民国家を建設して、国の独
   立を守った。これが明治維新の本質であることを、『新しい歴
   史教科書』は明確に描き出している。

   この歴史教科書を全文収録した『日本人の歴史教科書』に櫻
   井よしこ氏は『日本文明の支柱としての武士道』という一文を
   寄せ、こう説いている。

       幻ででもあるかのように、信じがたくも美しく純粋な価
       値観であった武士道を、数百年にわたって作り上げ、守っ
       てきたのが私たちの国だ。この貴重な歴史の支柱を現代に
       蘇らせることが、唯一、日本の真の再生を促す力となるで
       あろう。

   冒頭のモーリス・パンゲ氏の「武士たちの望みは、日本とい
   う国の力をよびさますことだったのです」という言葉にを紹介
   したが、その武士道が、現代においても「日本の真の再生を促
   す力となる」というのである。歴史を学ぶとは、こういう力を
   蘇らせることであろう。
                                        (国際派日本人養成講座より転載/文責:伊勢雅臣)

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