戦場のメロディ(渡辺はま子)
歌姫・渡辺はま子さんの半生ドラマ化
二次世界大戦中から戦後にかけて活躍した昭和の歌姫・渡辺はま子さん(1999年12月、89歳で死去)。彼女が歌い大ヒットした「あゝモンテンルパの夜は更けて」に込められた思いと、その半生を描いたフジテレビのドキュメンタリードラマ「戦場のメロディ ~108人の日本人兵士の命を救った奇跡の歌~」が、9月12日午後9時から放送される。「なぜ歌手が戦犯を救ったのか」。素朴な疑問から取材を始めたという同局報道番組部の成田一樹プロデューサーに話を聞いた。
「昭和28年、フィリピンの刑務所に収容されていた元日本兵死刑囚108人が、奇跡の生還を果たした。そこには、昭和を代表する歌手・渡辺はま子さんがいて、歌が救出のきっかけになったと知って取材を始めた」と成田さん。
はま子さんは「蘇州夜曲」「支那の夜」など戦前~戦後にかけて活躍。従軍歌手として戦地で慰問を続け、第1回紅白歌合戦のトリを務めた。戦後も独自に、元日本兵や遺族の慰問を続けていたという。
そんな中、はま子さんは、戦後7年を過ぎてもフィリピン・モンテンルパ刑務所に100人以上の元日本兵が戦争犯罪人として収容され、死刑執行を待っていると知る。国交がなく、日本政府も救出の手だてがない。そこで、国に見放された彼らと手紙をやりとりして励まし続けた。
故郷や家族への思いを切々と歌い上げる「あゝモンテンルパの夜は更けて」の作詞と作曲は、収容されていたうちの2人が手掛けた。収容者全員の思いを代弁し、はま子さんに託したものだ。
「はま子さんは戦後、自身について多くを語らない人だったので、横浜にいるご遺族の協力をいただき、日記や戦犯の方たちとの手紙など、彼女が残した記録を一つ一つ拾い上げる形で番組化を進めた」と成田さん。
彼女が残した手紙は数百通。すべてを読み込み、手紙をやりとりした戦犯やその遺族など、70人以上に取材した。刑務所の現在の様子や遺族のインタビューなどは、ドキュメンタリーとして番組に盛り込んだ。
「あゝモンテンルパの夜は更けて」をはま子さんが歌うことで、モンテンルパに捕らわれた戦犯の存在が広く知られることとなり、最終的にこの歌に胸を打たれた当時のフィリピン大統領が未来に禍根を残さないために釈放を決める。
「大統領に決断を促したのは歌だった。歌が外交さえも変える。その力が伝われば」と成田さん。
はま子さん役の薬師丸ひろ子は、一カ月間歌のレッスンを積み、収録に臨んだ。この時代独特の節回しは難しかったそうだが「戦犯の方の“和へのあこがれ”を感じながら歌った」とか。「一つの音楽が大統領の気持ちを動かし、大勢の命を救ったことに感動した。その感動がみなさんにも伝わったら」
はま子さんは生前「歌は3分間のドラマだ」という言葉を残した。3分間のドラマで人がほほ笑んだり泣いたりする。3分の自分の歌で希望が見えるなら、それが戦地でも慰問でも、私はどこへでも行く、と。
激動の時代にほんろうされたはま子さん。しかし、成田さんは「傷ついた人、残された人と向き合ったはま子さんの姿は、現代にも通じるメッセージたり得る」と話している。
★ドラマのあらまし
渡辺はま子(薬師丸ひろ子)は、戦後7年が経過したある日、フィリピンの国会議員から、フィリピン・モンテンルパ刑務所で14人の日本人戦犯が処刑され、残り108人の日本兵も処刑される可能性があると聞く。彼らを救出する手だてはないかと奔走するはま子。その時、政府の復員局では植木信吉(成宮寛貴)が、モンテンルパでは教誨師(きょうかいし)の加賀尾秀忍(小日向文世)が、それぞれの立場で救出に尽力していた。
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戦争は玉音放送を聞いても終わっていなかった。
玉音放送からが始まりだった。
歌手が自分に出来る「歌」で、同胞を救った!
見応えのある、感動のドラマであった。
http://www.youtube.com/watch?v=nPHSzT85VuE&hl=ja
http://www.youtube.com/watch?v=PiwU-vV3oiY
http://www.youtube.com/watch?v=WaDKkFWwfcs
http://www.youtube.com/watch?v=cJeoEK-QvpU&feature=related
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