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マリナーズ10年目のキャンプインを翌日に控えたイチローは、午後3時前にキャンプ施設入り。身体検査後、さっそくキャッチボール、ティー打撃などで40分ほど体を動かした。
マリナーズの森本トレーナーによると、イチローの体脂肪率は例年通りの6%台。「それ以外の数値も含めて1年目(2001年)からほとんど変わっていない。すごいことです」。同トレーナーは昨季終盤に痛めた左ふくらはぎについても「問題ないでしょう」と太鼓判を押した。
イチローは記者会見を行わなかったが、駐車場の外で待ち受けた約50人のファン全員にサインして帰った。(産経ニュース2010.2.23)
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私の体脂肪は現在18%・・・・・
安藤はたった一つの思いを胸に秘めてリンクに立った。「みなさんに感謝の気持ちを込めて滑ろう」。自分がスケートを続けてきた一番の力は、ファンの、家族の支え。2度目の大舞台で、感情豊かに「クレオパトラ」を滑りきってみせた。
冒頭は3回転-2回転の連続ジャンプ。SPの連続3回転から難度を落とした。「SPで失敗して落ち込んでいた」。フリーは悔いなく演じたかった。成功で流れをつかむと、大きなミスなく無難にまとめてきた。
一つ反省があった。全体に「スピードがなかった」とつぶやいた。好調時は、スピードあふれる助走から切れのあるジャンプを見せる。確かに大舞台での動きは物足りなかった。「でも半分以上は満足です」。感謝が伝えられて納得していた。
4年前、トリノ五輪で15位と惨敗すると、周囲からの中傷で辞めることも考えた。食事がのどを通らない時期もあった。「前回はやりたいことをやって、自己満足で終わった。今回は自分なりに成長したかな」と、照れくさそうに笑った。
22歳。「4年後はわかかりません」と3度目への気持ちは固まっていない。ただ、モロゾフ・コーチは「ソチでは4回転ジャンプが跳べるかも」という。世界の女子で初めて4回転を跳んでから8年。妖艶(ようえん)な大人の女性が再び大技を磨いたら強い。(産経ニュース2010.2.26)
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個人的には好きなんです。
よく頑張ったね(゚ー゚)
力強い「鐘」の音には負けたくなかった。浅田は怒りの表情を作りだし、ときに悲しげに、ときにはかなげに、力いっぱい舞い上がって氷をけり続けた。銀メダル。「メダルはうれしいですが、演技には納得していません」。うれしいような、悲しいような、困った顔で涙を浮かべた。負けず嫌いが顔をのぞかせた。
5歳でスケート靴を履いた。2歳上の姉、舞さん(21)と一緒にリンクへ通った。舞さんは「2人で『わたしの方がうまいよ』と言い合ってましたね」と笑う。駆け出し時代は年齢差もあり、姉に軍配があがった。それでも浅田は与えられた課題を必死にクリアしては喜んでいた。
浅田の小中時代を指導した山田満知子コーチは「すべてを持っている子」と、褒めたたえた。小6で出場した全日本選手権で3連続3回転ジャンプを跳んだ。関係者は大騒ぎ。「天才」の称号がついて回った。気が付けば、舞さんを簡単に置いていってしまった。
待望の五輪シーズン。皮肉にも人生最大のスランプが浅田を襲った。昨年10月のグランプリ(GP)シリーズ、フランス杯で2位、続くロシア杯では自身最悪の5位に沈んだ。武器のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)が安定せず、得点が伸ばせなかった。
「(3回転半を)百発百中にします。プログラムは変えません。練習してきたプログラムをまだ完璧(かんぺき)に滑っていないので」。ここでも自分自身に対して負けず嫌いだった。途中であきらめる自分は想像できないし、許せなかった。
五輪行きのチケットを手にするには、昨年末の全日本選手権で勝つ以外、道はなくなっていた。毎日朝から晩まで、愛知・中京大にこもった。多い日は100本超のジャンプを跳んだ。顔を見るのは毎日同じコーチ、スタッフばかり。19歳の息は詰まっていた。
救ったのは家族とスケートだった。
昨年12月初め、浅田は舞さんの前で泣いた。「もう跳べない」と、だだっ子のように大粒の涙を流した。中京大の更衣室。舞さんも選手だ。浅田の肩の重さが痛いほど伝わってきた。
舞さんは「これまで何万回も跳んできて、一日で跳べなくなるなんて、ないよね」と励ました。一緒に中華料理を食べ、買い物に行った。浅田が誘い、赤いひも状のネックレスをおそろいで買った。浅田はこのネックレスを付けて全日本を制し、五輪出場を決めた。
全日本に来られなかったタラソワ・コーチからもメールが届いた。「わたしは真央の力を知っています。真央が真央でいられることを祈っています」。浅田は「すごくうれしかった」とすぐに返信した。
中京大のリンクで、練習にやってくる子供たちと一緒に滑ることもした。浅田は笑顔で氷上を舞った。ジャンプもスピンも新しいことに挑戦することが大好きで、氷の上にいるだけで楽しかった時代があった。浅田の関係者は「あの時間で滑る楽しさを思いだしたのかもしれない」と笑う。
4年前。トリノ五輪は年齢制限で出場がかなわなかった。誕生日が87日規定に足りなかった。最初からわかっていた。「バンクーバーに出る」と誓って練習を積んでいた。母の匡子さん(47)に「何で早く生んでくれなかったの」と冗談は言っても、「トリノに出ていたらなぁ」と想像したことは一度もない。
初めての大舞台はほろ苦さが残った。誰もが魅了される笑顔は弾けなかった。「五輪は五輪」だという。笑顔も金メダルも世界選手権では取り戻せない。「また出たい」-。4年後は23歳。忘れものを取りに必ず戻ってくる。(産経ニュース2010.2.26)
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「とても悔しい」と言ったあなたは日本人の誇りだ。
堂々と帰国して欲しい。
そして必ずリベンジして欲しい。
今回は関越道の渋滞を見越して急遽大宮国際CCに
行ってきた。とても暖かくゴルフ日和であった。
河川敷の狭いコースで左が浅いのが気になり、
ドライバー、アイアンの引っかけが多く出た。
また、転がしアプローチもフィーリングがオーバー気味。
少なくとも、トリプルは打たないマネジメントが求められる。
*大宮国際CC:とき53(16)+ひばり55(18)=108(34)
前半×:後半×
××最初のホール慎重に!
×○最後のホール慎重に!
××ドライバー:芯に当てる
××FW:引っかけ修正
××アイアン:引っかけ修正
××アプローチ:転がしor52度
△△パット:1パット以下5回、3パット以上3回
○○バンカー:1打で出す
バーディー0、パー0、ボギー6、ダブルボギー8、トリプルボギー以上4。
二・二六事件(ににろくじけん)は、1936年2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター未遂事件である。事件後しばらくは「不祥事件」「帝都不祥事件」とも呼ばれていた。
革命的な国家社会主義者北一輝が記した『日本改造法案大綱』の中で述べた「君側の奸」の思想の下、天皇を手中に収め、邪魔者を殺し皇道派が主権を握ることを目的とした「昭和維新」「尊皇討奸」の影響を受けた安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次らを中心とする尉官クラスの青年将校は、政治家と財閥系大企業との癒着が代表する政治腐敗や、大恐慌から続く深刻な不況等の現状を打破する必要性を声高に叫んでいた。
陸軍はこうした動きを危険思想と判断し、長期に渡り憲兵に青年将校の動向を監視させていたが、1934年(昭和9年)11月、事件の芽をあらかじめ摘む形で士官学校事件において磯部と村中を免官した。しかしこれによって青年将校の間で逆に上官に対する不信感が生まれることになった。皇道派と統制派との反目は度を深め、翌1935年(昭和10年)8月12日白昼に統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長が皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起こった(相沢事件)。
五・一五事件 (1932年) で犬養毅総理を殺害した海軍青年将校らが禁錮15年以下の刑しか受けなかったことも二・二六事件の動機の一つになったともいわれる。ただし五・一五事件は古賀清志海軍中尉らの独断によるテロであり、将校としての地位を利用して天皇から預かった兵卒を動員したクーデタではない。
なお三井財閥は血盟団事件 (1932年2月〜3月) で団琢磨を暗殺されて以後、青年将校らによる過激な運動の動向を探るために「支那関係費」の名目で半年ごとに1万円を北一輝に贈与していた。三井側としてはテロに対する保険の意味があったが、この金は二・二六事件までの北の生活費となり、西田税(北の弟子で国家社会主義思想家)にもその一部が渡っていた[1]。2月22日の時点で北は西田から蹶起の意思を知らされていたが、このときに北は「已むを得ざる者以外は成るべく多くの人を殺さないという方針を以てしないといけませんよ」と諭したという[1]。
青年将校らは主に東京衛戍の第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊および近衛師団歩兵第3連隊に属していたが、第1師団の満州への派遣が内定したことから、彼らはこれを「昭和維新」を妨げる意向と受け取った。そこで第1師団が渡満する前に蹶起することになり、実行は1936年(昭和11年)2月26日未明と決められた。なお慎重論もあり、山口一太郎大尉や、民間人である北と西田は時期尚早であると主張したが、それら慎重論を唱える者を置き去りにするかたちで事件は起こされた。
20日(土)同窓会幹事会(新年会)に参加してきた。
昨年4月の前会長の5期早乙女氏が本校の教頭に
就任したのを受け、同窓会会長に5期の下形氏が就任。
参加者は校長、教頭、そして5期が中心であったが、
13期の方々もおり、懐かしい話に花が咲いた。
5日、ホンダ青山本社にて、ホンダインサイト開発責任者
の関康成氏に戦略経営者インタビューをしてきた。
関氏は中学、高校の大先輩だ。
ホンダの車作りの理念、そして情熱を語っていただいた。
また、ホンダの創業者、本田宗一郎のお話をお聞きした。
しっかりと創業者の理念、DNAを承継しているホンダは
やはり強い!
内容は戦略経営者3月号をお楽しみに!
タイガー・ウッズ選手の会見を受けて米各紙の電子版は19日、一方的に謝罪の言葉を繰り返す内容に否定的な論調で、ワシントン・ポスト紙は「タイガーは謝罪をコントロールした」と見出しを立てた。
CNNテレビはウッズ選手の会見を繰り返し放送。「彼が関係を持った女性に対しては誘惑という言葉を用いて、謝罪は一言もなかった」と女性キャスターが報じた。
AP通信によると、ウッズ選手とスポンサー契約を結ぶ企業は会見内容に好意的な見方で、EAスポーツ社のピーター・ムーア社長は「世間に向けて話したことは良かった。彼の人生の立て直しをサポートしたい」。ナイキ社は「ゴルフ界に戻ってくることを待っている」とコメントを発表した。
一方、メディア対応の専門家であるリック・セローン氏は「謙虚さを期待したが、見えたのは高慢さ。基本的にただのコマーシャルだった」と厳しく指摘した。(産経ニュース2010.2.20)
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まあ、タイガーウッズも人間だったということでしょう!
マイペースで行きましょうや!
今季、高橋はすべての試合で「最高の演技」を目指し、挑戦を続けてきた。失敗を恐れずフリーで必ず4回転ジャンプを組み込みんできた。「五輪で金メダル」を成し遂げたい思いが本番の舞台でも4回転に挑戦させた。着地に失敗はしたが、悔いはなかったはずだ。
一昨年10月、悲劇が襲った。右ひざ前十字靭帯(じんたい)断裂、半月板損傷の重傷に下した決断は手術だった。「100%の状態で五輪に臨みたかった」。五輪まで1年少々の短期間で手術、リハビリを経て、昨年4月、リンクに戻った。
苦しいリハビリにご褒美があった。負傷の要因だった硬い関節が柔らかくなり、「股(こ)関節やひざの動く範囲が広がり、無駄な力を使わなくなった」。ジャンプが楽に跳べ、スピンでは腰が深く沈んだ。演技を磨く下地が手に入った。
昨季を棒に振り、逆に試合勘、体力はなかなか戻らなかった。技や動きがしなやかになる中、SP、フリーのいずれかでミスが出た。長光歌子コーチは「一歩一歩進んでいくしかない」と、焦る高橋に言い聞かせた。
「試合で挑戦するから何かが得られる」と、五輪で勝つために必要とする4回転ジャンプに挑み続けた。体力不足でも冒頭から全力で滑った。4回転の感触は少しずつ戻り、体が動く時間も伸びた。ひるまずに追い求めた最高の滑りを夢見て2度目の大舞台で舞った。(産経ニュース20102.19)
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挑戦するのか、挑戦しないのか。
挑戦すればたとえ失敗しても後悔しない。
挑戦せずに無難に行ってもすっきりしない。
積極的な気持ちが伝わる演技であった。
おめでとう!
【シンガポール支局】米女子プロゴルフツアーの今季開幕戦となったホンダLPGA最終日は21日、タイ・パタヤのサイアムCC(パー72)で行われ、前日3位だった宮里藍(24)がこの日のベストスコアとなる63をマーク。通算21アンダー、267で、6打差からスタートした首位スサン・ペテルセン(ノルウェー)を逆転した。宮里にとってはエビアン・マスターズ(昨年7月)に続く米ツアー2勝目。優勝賞金は19万5千ドル(約1800万円)。
宮里は米ツアー本格参戦5年目。2007年からはドライバーショットが乱れ、予選落ちが続くなど大きなスランプに見舞われたが、ツアー参戦4年目の昨年、日本人では6人目の米ツアー制覇を果たした。開幕戦でいきなり栄冠を手にした今季は技術と精神の両面での充実ぶりが期待でき、初の賞金女王も現実味を帯びてきた。
宮里藍の話 優勝できるとは考えていなかった。スコアのことは考えず、1ホール、1ホールに集中した。オフに練習したことが結果に表れたのだと思う。(産経ニュース2010.2.21)
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早くも優勝。
スイングが安定し、その上、アプローチ、パットを完全に自分の
ものにした感じだ。
http://www.golfdigest.co.jp/magazine/tournament/players/profile/tse0000000357.html
18日、税理士のT先生に紹介していただいた
赤坂山王病院に行ってきた。
担当教授は奥田誠先生。
詳しくお話を聞き、22日に内視鏡検査することに
なった。
しかし、赤坂山王病院、すごい施設と教授陣です。
今日はあいにくの雪。
でも先週の激寒、強風よりはぜんぜんマシだった。
まあ、先週のリベンジは出来たかな。
冬場はグリーンにシートぐらいかけて欲しいよね。
しかし、冬場の関越道の渋滞は異常だな(-_-)
*藤岡GC西:in47(17)+out47(15)=94(32)
http://booking.gora.golf.rakuten.co.jp/guide/layout_disp/c_id/100058
前半△:後半△
○○最初のホール慎重に!
○×最後のホール慎重に!
×△ドライバー:芯に当てる
△-FW:左引っかけ修正
△△アイアン:左引っかけ修正
△△アプローチ:転がしor52度
△○パット:1パット以下5回、3パット以上1回
○○バンカー:1打で出す
バーディー0、パー3、ボギー9、ダブルボギー5、トリプルボギー以上1。
日本人とは何ものか? 鍵は「辺境」にあり! これ以降、私たちの日本人論は、本書抜きでは語られないだろう。養老孟司さん絶賛。
日本人とは辺境人である――「日本人とは何ものか」という大きな問いに、著者は正面から答える。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人なのだ、と。日露戦争から太平洋戦争までは、辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。丸山眞男、澤庵、武士道から水戸黄門、養老孟司、マンガまで、多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。読み出したら止らない、日本論の金字塔、ここに誕生。
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■“外”に“中心”を求める
「日本人は昔から日本人論、日本文化論が大好き。日本はこうだから『優れている』とか『だめだ』といった議論ではなく、民族的なバイアス(偏り)を再確認するため、俯瞰(ふかん)した視点で日本論を整理したかった」
日本人は辺境人-との切り口から「日本とは何か」「日本人とは何者か」と幾度となく繰り返されてきた問いと向き合った。発売後約20日で5刷15万部を発行、異例の滑り出しを見せている。
日本人はいつも“外”の世界に不可抗力的な“中心”を求めてきた。ある時は中国だったり、ある時は西欧や米国だったり。いつも「きょろきょろ」よそと比べてばかりで、自前の理念を示すのはどうも苦手…。こんな辺境ゆえの特性こそが日本の「宿命」と説く。
丸山眞男、梅棹忠夫ら日本辺境論の“先人”の言葉を引きつつ、武士道から自衛隊、漫画まで雑多な事例を挙げ“中心”との距離ばかり探る日本の姿を浮き彫りにしていく軽やかさは見事だ。
「基本的に先人の意見をまとめ直しただけ」と謙遜(けんそん)するが、「手あかが付いていても、民族的な病を何度も確認することは必要」とも強調する。
日本人の一つの心性を説明するのに、ドラマ水戸黄門の例えがユーモラスに用いられている。「視聴者は黄門にではなく、権力にひれ伏す小悪党に日本人の自画像を見る。今でも外から来た権力や新しいものに弱い人たちは多いでしょう」。
だがそんな心性を、「ある種のあきらめとクールな自己認識に基づいて、消極的に肯定してみてもいい」と否定的にとらえないのが内田流だ。
「辺境だからこそ、巧みに“中心”との距離を測って自分たちに最適なシステムを作ってきたし、そのノウハウは相当なもの。案外日本人って、したたかなんじゃないかな」(新潮新書・777円)(産経ニュース2009.12.13)
これが社長の実態だ(中小企業とは何か)
社長はわがままである
朝令暮改はあたりまえ
社長と公私混同
社長は短気である
経営者は玉虫色でなければつとまらない
社長はだまされやすい
社長と情 ほか)
社長はいかにあるべきか(「運」「鈍」「根」
「始末」「算用」「才覚」
社長とは「助けられた人」だ
現状認識と現状否定
「楽な」経営、「楽しい」経営
社長は「聞き上手」たれ ほか)
経営はかくあるべし(経営を成功に導く3つのシステム
「ものの見方、考えるシステム」をつくる
「仕事をやらざるを得ないシステム」をつくる
「仕事のやり甲斐があるシステム」をつくる
「理念」を確立すべし
「ビジョン」を明示すべし ほか)
儲かる会社、儲ける会社(「儲かる」会社と「儲ける」会社はどこが違うか
「儲ける」会社の第1条件は「人」である
「儲ける」会社は経営方針書でわかる
「儲ける」会社は直間比率のバランスがいい
「儲ける」会社は付加価値経営をめざす
「儲ける」会社は借入金のバランスがとれている ほか)
経営は継栄である(経営はスクラップ・アンド・ビルドである
経営はエンドレスである
経営に「守り」はない
受け継がれてゆく企業風土
ライバル意識が経営を伸ばす
経営者の自己管理と労務管理 ほか
バンクーバー冬季五輪のスピードスケート男子500メートルで、長島圭一郎選手(27)が銀、加藤条治選手(25)が銅メダルに輝いた。日本勢の今大会初のメダルを一挙に2個もたらす快挙である。
長島、加藤両選手はいずれも冬季五輪初出場だった前回トリノ(2006年)の同種目でメダルも期待されたが、長島選手は13位、加藤選手は6位に終わった。ともに悔しさをバネに2度目の五輪挑戦で雪辱を果たした。不断の努力と重圧に負けない精神力をたたえたい。
冬季五輪での日本は、計10個のメダルを獲得した長野(1998年)以降は低迷が続いた。トリノでは最終盤でフィギュアスケート女子シングルの荒川静香選手が獲得した金メダル1個だった。
それだけに、今大会は2日目にフリースタイルスキー女子モーグルの上村愛子選手がメダルにあと一歩の4位と健闘し、4日目には銀、銅メダルと、序盤ではずみがついた。勢いが他の競技・種目の選手にも波及し、メダル獲得ラッシュとなってほしいものだ。
金融危機以来の日本の経済状況を考えると、メダルに浮かれている場合ではないとの意見もあろう。しかし、オリンピックは世代を超えて国民に夢と誇りを与える得難い体験だ。
バンクーバーでの日本選手団の一層の奮闘によって、東京などが挑戦を表明している夏季五輪の招致機運も盛り上がっていくと期待したい。
一方、今回の長島、加藤コンビの銀・銅メダルという結果は、選手の育成・強化という観点からも注目すべきである。
日本のスピードスケート男女が冬季五輪でサラエボ(84年)からソルトレークシティー(02年)まで6大会連続で計12個獲得してきたメダルはトリノで途絶えた。そのメダルを、とりわけ男子500メートルというお家芸種目で復活させた意義は大きい。
「転んでもいいと思って飛ばした」(長島選手)
「どんどん突っ込んでいくつもりだった」(加藤選手)
失意と不振を乗り越える積極性をどのようにして培ったのか。筋力強化やトレーニングの方法は。整氷作業のトラブルで1時間余り遅れた試合前にどんな調整をしたのか。両選手の経験を今後の五輪を目指す「チーム日本」の共有財産にもしてほしい。(産経ニュース2010.2.17)
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価値ある銀と銅。
練習してきてもダメな場合もある。
問題はガッツと集中力だろう。
新田次郎から「武田氏研究の権威」と激賞された上野晴朗が
活写。今まで誰も書かなかった女性からみた知られざる信玄
の姿!NHK大河ドラマの総括時代考証者が描く決定版。
NHK大河ドラマ『武田信玄』の総括時代考証者が描く決定版。
原作者新田次郎から「武田氏研究の権威」と激賞された
歴史家上野晴朗が豊富な資料のもとに活写した知られざる
信玄の姿!
済産業省は、中小企業の資金繰り対策として09年度2次補正予算に盛り込んだ「景気対応緊急保証融資」を15日から実施する。従来の緊急保証融資の枠(30兆円)を6兆円拡大し、対象を原則すべての業種に広げる。
11年3月末まで、中小企業が金融機関から受ける融資を各地の信用保証協会が100%保証する。対象拡大により医療、介護などが追加された。
また、日本政策金融公庫などが融資する設備投資資金の貸付金利を2年間、0.5%引き下げる措置も2月15日から9月末まで実施。民間設備投資の下支えを図る。(産経ニュース2010.2.5)
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年度末に向けて万全な対応が急がれる。
レースを終え、メダルにあと一歩届かず4位に終わった上村愛子は、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、「五輪で全力で滑ることができて満足です。ちょっと悔しいけど。なんでこんな一段、一段なんでしょうとは思います」と話した。
初出場の長野五輪の7位から6、5位と順位を上げ、そしてバンクーバーで「あと一つ」の4位。それでも、「いい滑りをしたというところを皆に見てもらえたと思う。応援してくれた人に、応援してくれた人にはメダルを見せることが『ありがとう』なのだとも思っていたけど、今回は『自分らしく滑って』というメッセージが多かった。それができたことがうれしい」と話した。
顔を流れる涙には、「自分がこうして泣いた顔をみせるのは珍しいからか、みんなが心配してくれるので、『大丈夫、大丈夫』っていっています」と話した。(産経ニュース2010.2.14)
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残念!
上位3名の滑りは圧巻であり、点数通りの順位だろう!
しかし、よく頑張ったと思う。
あきらめずにまたチャレンジして欲しい(u_u。)
バレンタインデー あるいはセントバレンタインデー(St. Valentine's Day)は、2月14日に祝われ、世界各地で男女の愛の誓いの日とされる。もともと、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であるとされているが、これは主に西方教会の広がる地域における伝承である。聖ウァレンティヌスを崇敬する正教会の広がる地域では、西欧文化の影響を受けるまでこのような習慣はなかった。
バレンタインデーの歴史は、ローマ帝国の時代にさかのぼるとされる。
当時、ローマでは、2月14日は女神ユノの祝日だった。ユノはすべての神の女王であり、家庭と結婚の神でもある。翌2月15日は、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカリア祭の始まる日であった。当時若い男たちと娘たちは生活が別だった。祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていた。翌日、男たちは桶から札を1枚ひいた。ひいた男と札の名の娘は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていた。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚した。
ローマ帝国皇帝クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれている。キリスト教司祭だったバレンタイン)は秘密に兵士を結婚させたが、捕らえられ、処刑されたとされる。処刑の日は、ユノの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれた。ウァレンティヌスはルペルカリア祭に捧げる生贄とされたという。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが一般論である。
上述の逸話には歴史的背景の説明が必要である。初期のローマ教会は、当時の祭事から異教の要素を排除しようと努力した跡がみられる。ルペルカリア祭は排除すべきだが、ただ禁止しても反発を招くだけであったため、教会にはこの祭りに何かキリスト教に由来する理由をつける必要があった。そこで兵士の結婚のために殉教したとされるバレンタイン司教の助けを借りることにしたと考えられる。こうしてキリスト教以前からあったルペルカリア祭は、バレンタイン由来の祭りであると解釈を変更され、祭りはその後も続いた。前述のくじ引きでパートナーを選ぶ話も、ローマの宗教行事は野蛮であるという印象を与えるために初期キリスト教会によって創作されたものである可能性もある。
渋滞、強風、激寒の三重苦。
寒波で大雪。
富岡CCの予約であったが、雪のためクローズ。
急遽、藤岡へ。スタッフの方ありがとうございました。
しかし、激寒、強風でさんざんでした。
転がしのアプローチもカチカチのグリーンには通じず・・・
来週リベンジに行きます。
藤岡GC東:out53(17)+in56(19)=109(36)
http://booking.gora.golf.rakuten.co.jp/guide/layout_disp/c_id/100058
前半×:後半×
○○最初のホール慎重に!
××最後のホール慎重に!
△△ドライバー:芯に当てる
××FW:左引っかけ
××アイアン:左引っかけ
××アプローチ:下堅い、転がしオーバー
△×パット:1パット以下3回、3パット以上3回
バーディー0、パー1、ボギー2、ダブルボギー10、トリプルボギー以上5。
○×バンカー:1打で出す
経済産業省は、会計基準の国際化の流れを踏まえ、中小企業の会計に関する研究会を発足させる。15日に有識者や中小企業経営者ら約30人を集めて初会合を開き、夏をめどに中小企業会計の国際化のあり方について方向性を示す。
世界的に国際財務報告基準(IFRS)の適用など会計基準の国際化の議論が進んでいる。日本でも企業会計審議会が昨年6月、中間報告に10年3月期からのIFRSの任意適用を盛り込んだ。
しかし、取引範囲が狭く、財務諸表を国際的に比較する必要性も薄い中小企業にとっては、会計基準の国際化は作業の負担が重い。
このため、研究会は、中小企業の実態に即した会計のあり方を議論する。(産経ニュース2101.2.11)
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しっかり対応しないと中小企業が大変なことになる。
ぜひぜひ、会計のダブルスタンダードを!
紀元節の制定まで
8世紀初めに編まれた『日本書紀』によれば、神武天皇の即位日は「辛酉年春正月、庚辰朔」であり、日付は正月朔日、すなわち1月1日となる。
辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮
– 『日本書紀』卷第三、神武紀
しかし、1872年(明治5年)11月15日、明治政府は神武天皇の即位をもって「紀元」と定め(明治5年太政官布告第342号)、同日には「第一月廿九日」(1月29日)を神武天皇即位の相当日として祝日にすることを定めた(明治5年太政官布告第344号)。この1月29日とは、1873年(明治6年)の旧暦1月1日をそのまま新暦に置き換えた日付である。折柄、明治5年12月3日をもって1873年(明治6年)1月1日とし、新暦が施行されることになっていた。
紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889年(明治22年)には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。1891年(明治24年)には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うことになった。1914年(大正3年)からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926年(大正15年)からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。
第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部により削除され、法は1948年(昭和23年)7月に施行された。日本が国家主権を回復した1952年(昭和27年)から復活運動がおき、1958年(昭和33年)に国会への議案提出があり、1966年(昭和41年)に祝日法が改正され、さらに佐藤栄作内閣により建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)として再制定され、1967年(昭和42年)2月11日建国記念の日として実施された。
休日としては復活したが、宮中祭祀においては未だ復活していない。皇室祭祀令が規定する毎年大祭の中で唯一、紀元節祭だけが外されたままになっている。また、三笠宮崇仁親王は、科学的根拠に欠けると歴史学者としての立場から復活に批判的である。
伊沢修二作曲、高崎正風作詞により1888年(明治21年)に発表され、「小学唱歌」にも掲載された。
国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用された。
他の祝日が祝日法に日付を定めているのに対し、建国記念の日は「政令で定める日」と定めている。この規定に基づき、佐藤内閣が建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定め、「建国記念の日は、二月十一日」とした。2月11日という日付は、明治時代の初期に定められ1948年(昭和23年)に廃止された紀元節と同じである。紀元節の日付は、『日本書紀』にある神武天皇が即位したとされる日(辛酉年春正月庚辰朔)に由来する。
当日は、建国記念日を祝う式典・集会が各地で行われ、これに反対する集会も各地で行われる。また、各地の神社仏閣では「建国祭」などの祭りが執り行われる。
「建国記念の日」と定められた2月11日は、かつて紀元節という祝日であった。紀元節は、『日本書紀』が伝える初代天皇である神武天皇の即位を祝う祝日として、明治5年(1872年)に制定された。この紀元節は、1948年(昭和23年)に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止されたことに伴い、廃止された。
紀元節復活に向けた動きは、1951年(昭和26年)頃から見られ、1957年(昭和32年)2月13日には、自由民主党の衆議院議員らによる議員立法として「建国記念日」制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が「建国記念日」の制定を「神武天皇即位の年月は、歴史上、科学的に根拠が薄弱であり、今後学問的検討を待って決定すべきではないか」「過去において、神武東征の物語りが、征略国家として支那事変、大東亜戦争において利用され、偏狭なる忠君愛国の教育とも相待って、日本の進路を誤まらせたものではないか」と批判して反対し、衆議院では可決されたものの、参議院では審議未了廃案となった。
その後、「建国記念日」の設置を定める法案は、9回の提出と廃案を繰り返すも、成立には至らなかった。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」として“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるようにし、具体的な日付の決定に当たっては各界の有識者から組織される審議会に諮問するなどの修正を行い、社会党も妥協。1966年(昭和41年)6月25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案は成立した。
同改正法では、「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」と定め、同附則3項は「内閣総理大臣は、改正後の第2条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない。」と定めた。建国記念日審議会は、学識経験者等からなり、総理府に設置された。約半年の審議を経て、委員9人中7人の賛成により、「建国記念の日」の日付を「2月11日」とする答申が1966年(昭和41年)12月9日に提出された。同日、佐藤内閣は「建国記念の日は、二月十一日とする。」とした「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定めて公布し、即日施行した。
勝つためには何を為すべきか―セパ両リーグにまたがる日本一、西武ライオンズ監督4年の任期中リーグ優勝3回、連続日本一を達成した智将広岡達朗の実践的勝利学。根性、精神主義ではなく、合理的、科学的でかつ自主的な、本人の意識革命を通じて、闘う組織集団が結成される。ビジネスマン必読の兵法書。
プロフェッショナルとはなにか。
教えることのむずかしさ。
監督=指導者の条件。
苦境が人を育てる。
勝つための意識革命。
30年以上の永きにわたって読み継がれた好著が、装いを新たに登場。
松下電器を興し日本を代表する巨大企業に成長させた経営者、松下幸之助。本書はそんな彼が経営者として永年の体験をもとに、古今東西の事例を交えながら、組織を率いる者のあるべき姿を説いたものである。
「指導者は人、物すべての価値を正しく知らねばならない」「指導者は一面部下に使われるという心持ちを持たねばならない」「指導者は時には何かの権威を活用することも大事である」「指導者には一つの指導理念がなくてはならない」など――日本史上の名君、古代中国の英雄、思想家、近代の世界の政治家らの言行から、著者自身も絶えず反省、検討し繰り返し見出した「指導者の条件」を示す。
著者は「本書は自分の勉強のための教科書のようなものであり」(まえがきより)とも言っている。企業や組織のトップのあり方が、改めて問われている今だからこそ読みたい、座右の書となる一冊。
この話はなさそうでありそうな話である。
正日が日本人の血を引く、大日本帝国の落とし子であるという確度の高い情報を、私はある場所でつかんだ。そこから気の遠くなるような取材が始まった。すると、そうして得た数々の証拠は、にわかには信じがたいもの……この情報を裏付けるものばかりだった。北の独裁者、金正日は日本を思慕し続けている。彼の日本をこよなく愛する心根には、「親日派」と表現するだけでは済まない、悲痛な叫びにも似た一途な思いがある。「遺伝子の咆哮」とでもいえば、しっくりくるような――。――<「まえがき」より>
http://www.amazon.co.jp/%E9%87%91%E6%AD%A3%E6%97%A5-%E3%82%AD%E3%83%A0%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%A4%E3%83%AB-%E3%81%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%AE%88/dp/4062157667
いまNHKで「龍馬伝」がやっている。
これは岩崎弥太郎の目線で幕末、明治維新を
描いている。
この「猛き黄金の国」は岩崎弥太郎の人生そのものを
描いている。
土佐の地下浪人から、三菱を創設した壮絶な人生だ。
とてもおもしろい。ぜひ、ご一読を!
http://comics.yahoo.co.jp/thirdline/motomiya01/takekiou01/list/list_0001.html
今月3回目のラウンドに行ってきた。
スタート連続トリプルボギー!!!
集中力がないな!
後半持ち直したが、最終18番もOBで
トリプルボギー!
しかし、14番のバーディー、15番のパーは
手応えが・・・・・
フェードの完全マスタを!!!
藤岡GC西:out50(18)+in47(15)=97(33)
http://www.accordiagolf.com/guide/3570037/
前半×:後半×
××最初のホール慎重に!
△×最後のホール慎重に!
×△ドライバー:ゆっくりと!
--FW:使用なし
△△アイアン:ゆっくりと!
×△アプローチ:上げるか転がすか。
△○パット:1パット以下5回、3パット以上3回
△バーディー1、パー2、ボギー7、ダブルボギー5、トリプルボギー以上3。
○×バンカー(1打で出す)
知人男性に対する暴行問題の責任を取る形で、現役引退を表明した横綱朝青龍関は4日午後3時45分、師匠の高砂親方(元大関朝潮)に伴われ、両国国技館の記者会見場に現れた。「みなさまに大変ご迷惑をかけ、お騒がせした。責任をもって引退をしました」と表明。決断の時期は明かさず、「師匠と話し合いの上で考えた」とだけ説明した。
カメラのフラッシュを浴びる中で時折、笑みも浮かべたが、引退の引き金となった暴行問題に釈然としない思いが残るのか、「メディアで流れたことと実際に起こしたことは、かなり格差がある」と本音を漏らす場面も。曲折をへた末の引退に「最後にけじめをつけるのは僕しかいない。これが自分の運命」と潔さを強調した。
土俵内外で横綱の品格を損なった型破りな振る舞いについても釈明。「正直いえば、土俵に上がれば鬼になる。今までにない人だったので、みなさまにご迷惑をかけた」と話した。
横綱の顔色が変わったのは、現役時代の思い出を聞かれたとき。新小結に昇進した平成13年夏場所の初日にモンゴルから初めて両親を招き、横綱武蔵丸を破った一番を挙げた。「両親の前で…」と言葉を湿らせると沈黙。しばし、目頭にハンカチを押し当てた。
今後の進路は未定という。自身をめぐる連日の報道に疲れをのぞかせ、「精神的なダメージを受けた。みなさん(報道)の力に圧倒されたこともある。このへんで、ゆっくりしたい」と大きく息を吐き出した。(産経ニュース2010.2.4)
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結果的に引退に追い込まれた。
横綱というよりもチャンピオンに近かった。
まわしよりもチャンピオンベルトが似合う。
日本人はよそ者をどうしても受け付けない。
必ず叩く。兄貴もプロレス参戦しているので、
プロレス転向かなヽ(´▽`)/
立春(りっしゅん)は二十四節気の1つ。2月4日ごろ。および、この日から雨水までの期間。
太陽黄経が315度を含む1日で、春の初め。正月節。『暦便覧』には「春の気たつをもつてなり」と記されている。
冬至と春分のほぼ中間にあたり、昼夜の長短を基準に季節を区分すると、この日から立夏の前日までが春となる。九州など暖かい地方では梅が咲き始める。暦の上では「春」になるが、実際には余寒が厳しく、大寒とともに最も寒い時節でもある。
立春の前日は節分である。立春から数えて88日目を八十八夜、210日目を二百十日、220日目を二百二十日と呼ぶ。
立春以降初めて吹く南よりの強風を春一番と呼ぶ。
立春の早朝、禅寺では門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣がある。
節分(せつぶん、または、せちぶん)は、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のこと。節分とは「季節を分ける」ことをも意味している。特に江戸時代以降は立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多い。以下、立春の前日の節分、およびその日に行われる各種行事について述べる。
節分の行事は宮中での年中行事であった。延喜式をひも解くと、宮中ではこの日、彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾ったもの。もともと、この節分の鬼を払う悪霊ばらい行事は、平安時代頃から行われている「追儺(ついな)」(矢で鬼をはらう中国の風習)から生まれた。『続日本紀』によると706年(慶雲3年)にこの追儀が始まり、室町時代に使用されていた「桃の枝」への信仰にかわって、炒った豆で鬼を追い払う行事となって行った。『臥雲日件録(瑞渓周鳳)』によると、1447年(文安4年)に「鬼外福内」を唱えたと記されている。近代、上記の宮中行事が庶民に採り入れられたころから、節分当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺したもの(柊鰯)を戸口に立てておいたり、寺社で豆撒きをしたりするようになった。一部の地域では、縄に柊やイワシの頭を付けた物を門に掛けたりするところもある。これは、季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられており、それを追い払うためである。
1日行われた日本相撲協会理事選挙で苦戦との予想を覆し当選した貴乃花親方(元横綱)は一夜明けた2日、「戻ることはできない。前に進むだけ」と心境を語った。
同親方は東京都中野区の貴乃花部屋で朝げいこを指導。ジャージー姿で土俵に下りて弟子たちとともに力強いしこを踏むなど、精力的に体を動かした。選挙戦を終えた疲労は感じさせず「疲れる間もなく日々を過ごしている。皆さんからの支援が糧になっている」と、すがすがしい表情で話した。
37歳の新理事は「あさっての理事会で職務分担が決まるので、気を引き締めてしこを踏みました。与えられた仕事を全うするだけです」と意気込みを口にした。(産経ニュース2010.2.2)
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封建的なこの社会で変革を断行できるか。
期待したい。
日中両国の有識者による歴史共同研究委員会は31日、双方の論文をまとめた報告書を公表した。日本側が「20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がなされている」とした昭和12~13年(1937~38年)の「南京事件」の犠牲者数について、中国側は「30万人以上」と言及。近代を中心に双方の見解の相違が鮮明となった。平成元年(89年)に中国政府が民主化運動を武力弾圧した天安門事件が含まれる戦後史部分は、中国側の要求で公表が見送られるなど課題を残した。
日本側が発表した報告書は「古代・中近世史」「近現代史」の2本立てで計549ページ。それぞれの時代について日本側と中国側の論文を掲載した。中国国内で報告書がどこまで公表されるかは不明だ。
公表にあたって報告書は「論文が体現しているのは執筆者本人の認識であり、双方が同意した共通認識ではない」との断りを入れた。両政府は今回の報告を「第1期」と位置づけ、年内にも「第2期」研究に着手する。
日中戦争をめぐって、日本側は「双方の軍人だけではなく、特に中国の非戦闘員に多くの犠牲を強いた」とし、加害者の立場を明確にした。さらに「非戦闘員の犠牲の多さや日本軍によるさまざまな『非違行為』は、戦後両国民の中に、新しい関係構築を妨げる深い傷跡を残した」と指摘した。
中国側は日中戦争について「日本軍国主義による全面的な侵略戦争」と断定し、「中国人民の抗日戦争における偉大な勝利」で終結したと総括した。
ただ、日中戦争での中国側の死傷者数をめぐっては、国民政府軍312万人、中国共産党軍58万人超とした日本側に対し、中国側は「軍人・民衆の死傷者は3500万人以上」と数字に大きな差が出た。
昭和3年(28年)の「張作霖爆殺事件」、6年(31年)の「柳条湖事件」、12年(37年)の「盧溝橋事件」でも、すべての行為を日本の「侵略」意図と強調する中国側と、偶発的事件や旧日本軍の一部による行為などとする日本側で隔たりを残した。
また、「古代・中近世史」では、日本が中国を中心とした国際秩序「冊封体制」に臣下として組み込まれていたとする中国側と、隋の時代以降、「朝貢はするが冊封は受けない」という関係にあったとする日本側の見解は分かれた。
◇日中歴史共同研究◇ 平成18年10月、訪中した安倍晋三首相(当時)と胡錦濤国家主席との首脳会談の合意に基づき、同年12月に始まった。両国の有識者各10人で構成され、「古代・中近世史」「近現代史」の分科会で双方が論文を提出し、議論した。日本側は北岡伸一東大教授、中国側は歩平・社会科学院近代史研究所長が座長を務めた。
日中平和友好条約締結30周年にあたる20年中に成果を発表する予定だったが、記述をめぐり意見が対立し何度も延期された。最終会合も中国側の意向で昨年12月まで開かれなかった。(産経ニュース2010.1.31)
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歴史の認識違い、時間が経ちすぎている。
しかし、その真実は明らかである。
日本と中国、真の理解はいつ・・・
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