1945年3月10日(昭和20年)は東京大空襲がありました。
東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう、英語:Bombing of Tokyo in World War II)は、第二次世界大戦中にアメリカ軍により行われた、東京に対する焼夷弾を用いた一連の計画的かつ大規模な戦略爆撃の総称である。
東京は、1944年11月14日以降に106回の空爆を受けたが、特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日に大規模な空襲を受けた。通常「東京大空襲」と言った場合、特に規模が大きかった1945年3月10日に行われた空襲を指すことが多い。太平洋戦争(大東亜戦争)中に行われた空襲の中でも、とりわけ民間人に被害を与えた空爆である。
3月10日の大空襲は、日本(当時は大日本帝国)の中小企業が軍需産業の生産拠点となっていると理由付けして、町工場も混ざる木造建築ばかりの下町の市街地、生活する市民そのものを焼き払うという低高度夜間焼夷弾攻撃である。アメリカ軍の参加部隊は第73、第313、第314の三個航空団が投入された。
1945年3月9日夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来。22時30分(日本時間)、ラジオ放送を中断して警戒警報が発令された。同編隊は房総半島沖に退去して行ったため、警戒警報は解除される。ここで軍民双方に大きな油断が生じた。その隙を突いて、3月9日から3月10日に日付が変わった直後(0時7分)に爆撃が開始された。B-29爆撃機325機(うち爆弾投下機279機)による爆撃は、0時7分に深川地区へ初弾が投下され、その後、城東地区にも攻撃が開始された。0時20分には浅草地区や芝地区(現・港区)でも爆撃が開始されている。火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速50m以上、竜巻並みの暴風が吹き荒れた。アメリカ軍が3月10日に東京大空襲を実施した理由は、3月10日が日本の陸軍記念日である事に因んでいるという説が有力である。但し、アメリカ側の資料では陸軍記念日を意識していたことは確認できていない。
東京大空襲でB-29は日本の貧弱な防空能力を見越し、多くの爆弾投下機から殆どの機銃と弾薬を降ろして通常の約2倍、6tの高性能焼夷弾を搭載していた。投下された爆弾の種類は、この作戦で威力を発揮した集束焼夷弾E46(M69)を中心とする油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾などである。有名なのはゼリー状のガソリンを長さ約50cmの筒状の容器に詰めたナパーム弾である。この形は日本家屋の瓦屋根を打ち貫いて家の中に入り中身を散布するためで、縦にまっすぐ落ちるよう空中で体勢を制御するために吹流しのようなものを付けた。そしてこれらをまとめて一つの束にし、「束ねる」という意味を込めて「クラスター焼夷弾」と呼んだ。投下後空中で散弾のように分散するものである。この空襲での爆弾の制御投下弾量は38万1300発、1783tにのぼった。午前2時37分、アメリカ軍機は退去し、空襲警報は解除される。
当夜は強い冬型の気圧配置により強い北西の季節風が吹いており、この強風が以下の条件と重なり、大きな被害をもたらした。
- もともと精度の悪い警戒用レーダーのアンテナを風が揺らしたため、ますます精度が悪化していた。これにより、確実な編隊の捕捉と敵の企図の把握が出来ず空襲警報の発令が極端に遅れた(発令されたのは初弾投下8分後の3月10日午前0時15分)。また、敵機はウインドウを大量に散布するなどした。
- 「低空進入」と呼ばれる飛行法を初めて大規模実戦導入した。まず、先行するパス・ファインダー機(投下誘導機)が超低空でエレクトロン焼夷弾を投弾して閃光で攻撃区域を本隊に示し、爆撃機編隊も通常よりも低空で侵入して、発火点を包囲するかたちで集束焼夷弾E46を投弾した。着弾は高度爆撃よりはるかに精密になった。後続編隊は早い段階で大火災が発生したため、非炎上地域に徐々に爆撃範囲を広げたが、火災による強風で操縦が困難になり、焼夷弾を当初の投下予定地域ではない荒川(当時は荒川放水路)周辺やその外側の足立区や葛飾区、江戸川区の一部にまで広げた。このため、火災範囲は更に拡がった。
- 折からの北西の季節風(空っ風)が火勢を煽り、延焼を拡げた。
これら複数の要因が重なり被害が拡大した。
この時使用された焼夷弾は日本家屋を標的にした物であり、ドイツがロンドンを空襲した際に不発弾として回収された物を参考に開発された。当時の平均的な構造とは違う作りをしていた。通常、航空爆弾は瞬発または0.02~0.05秒の遅発信管を取り付けることで、爆発のエネルギーを破壊力の主軸にしている。しかしこれでは木材建築である日本家屋に対してはオーバーキルとなる。そこで爆発力ではなく、燃焼力を主体とした「焼夷弾」が開発され、これが木造を主とする日本家屋を直撃した。当時、都内では関東大震災を教訓に、燃えにくい素材で建物を補強するなどの対策がなされていたが、屋根瓦を貫き建物の中から燃やす仕組みとなっている新型焼夷弾E46の前では無力同然であった。
火災から逃れるために、隅田川に架かる多くの橋や燃えないと思われていた鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人もいたが、火災の規模が常識を遥かに超える規模であるため、超巨大な火災旋風が至る所で発生し、あらゆる場所に炎が火龍の如く流れ込み、焼死する人や、炎に酸素を奪われ窒息(ちっそく)死する人も多かった。また、川に逃げ込んだものの、水温が低く凍死する人も多く、翌朝の隅田川は凍死・溺死者で川面が溢れていたという。
水を求めて隅田川から都心や東京湾・江戸川方面へ追い詰められた犠牲者が多いのに対し、逆に内陸部、日光街道・東武伊勢崎線沿いに春日部・古河方面へ脱出した生存者が多い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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