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2010年9月15日 (水)

【紅陵に命燃ゆ】その2 乃木希典の苦闘

 ■台湾の未来にかけた将軍ら 

 ≪新領土を得たものの≫

 乃木希典大将は、東郷平八郎元帥とともに近代日本で最も崇敬されている軍人である。

 第11代の首相、桂太郎より2歳年下で、同じ長州の出身だ。日露戦争では陸軍の第3軍司令官に任命され、多くの犠牲を払いながらも、最も困難だった旅順攻略を果たし、国民から「軍神」としてあがめられる。唱歌や浪花節の主人公ともなった。

 だがその乃木が、日露戦争の前に台湾総督を務めていたことはあまり知られていない。

 日本は明治28年、日清戦争後の下関条約で清国から台湾の割譲を受けた。列強の植民地獲得競争の中、明治維新後の日本が初めて得た海外の新領土である。明治政府がその「経営」に力こぶを作ったのは言うまでもない。

 だが最初から、容易なことではなかった。それまでは清国の領土だったと言っても、17世紀になってからのことだ。それまではオランダなどの支配を受けていたこともあり、清国が人心を掌握していたとは言い難かった。

 ましてや「今度から日本が統治する」と乗り込んでも、官民がおいそれと従う道理はなかった。各地で「独立」を宣言しての蜂起が起こり、接収は手間取る。そこで文武両面で強力に統治するため、行政能力にも優れた軍人を総督として代々送りこむことになる。

 しかしこの後、拓務大臣で松方内閣樹立に功績のあった高島鞆之助が陸軍大臣を希望したため「桂陸相」は流れ、こんどは台湾総督留任を要請される。桂は軍人に似合わず温厚な性格で知られたが、さすがにこの「朝令暮改」には激怒し、総督の辞表をたたきつけてしまうのだ。

 代わりにオハチが回ってきたのは、当時第2師団長として仙台にいた乃木だった。桂の推薦、高島の説得でしぶしぶ引き受けたのだという。台湾に渡ったのは明治29年11月のことである。だが、待っていたのは「土匪(どひ)」と呼ばれた武装集団など台湾人の抵抗ばかりではなかった。

 『山河ありき』によれば、日本人の中に一旗挙げようという打算を胸に渡島する悪徳商人や、彼らと結託して私腹をこやす総督府の役人もいた。島民に傲岸(ごうがん)な態度で接する者もいる。軍隊も、総督の許可なく土匪に対しむやみに行動を起こしたがった。

 乃木が若いころ、酒におぼれ放蕩三昧(ほうとうざんまい)の生活を送っていたことはよく知られている。西南戦争で連隊旗を奪われたことで自暴自棄になったとも言われる。だが30代後半でドイツに留学した後は、謹厳実直な帝国軍人に豹変(ひょうへん)していた。外での酒をやめたばかりか、家でも寝るまで軍服を脱がない、といった徹底ぶりだった。

 そんな乃木に清濁併せ飲むような統治ができるわけはなかった。就任早々、綱紀粛正をかかげ「施政の要は人民を徳に服せなければならない」と訓辞した。不法な者は断固、処分すると宣言する。

 だが官民ともに乃木の厳しさには抵抗した。元々日本の内地で食いはぐれ、利益にありつこうと渡島している者が圧倒的に多かったのである。怒り、絶望した乃木は1年3カ月ほどで病気を理由に辞任、栃木県那須の別荘に引きこもってしまった。

 しかしそうした台湾の実情や乃木の苦悩は、東京にも伝わっていた。総督を日本から支え、統治が円滑に行えるよう結成されたのが「台湾協会」である。その意味で乃木は台湾の未来への礎(いしずえ)の役を果たした。

 初代会頭に推された第3次伊藤内閣の陸軍大臣桂太郎は会頭になるや、政論よりも実業を重んじることを宣言する。総督府への政治介入を避ける一方、起業を協会が後押しすることが、真の台湾開拓につながる。綱紀も粛正されると考えたからだ。

 このため協会は台湾の産物や台湾向け内地品の収集や陳列、台湾実業上の調査、台湾人留学生の招致などを積極的に行った。さらにそのための人材養成機関の設置を目指す。33年9月15日、スタートを切った台湾協会学校、現在の拓殖大学である。初代校長は言うまでもなく桂だった。

 「開拓者の気魂にみちて、海外に進出し、異民族に伍して敬愛と信頼とを受け、経済社会の開発に協力し貢献する人材を育成する」がその建学の精神だった。桂は入学式以来折りにふれ、学生を鼓舞(こぶ)した。

 台湾開拓の夢を政争で挫折させられた桂にとって、学校設立は大きな念願だったのかもしれない。(文・皿木喜久)

                   ◇

【プロフィル】乃木希典

 のぎ・まれすけ 嘉永2(1849)年長州藩江戸屋敷に生まれる。少年期に長州・萩に移り藩校・明倫館に学ぶ。戊辰戦争で各地を転戦した後、明治4年陸軍少佐。西南戦争で連隊旗を奪われる。19年ドイツに留学、戦術を学ぶ。日清戦争では第1旅団長として出征、29年台湾総督。その後休職となるが、37年の日露開戦で復職し、第3軍司令官として旅順攻防戦を指揮、203高地を奪い、ロシアを降伏させる。41年学習院院長。大正元年9月13日、明治天皇大喪の礼の日に静子夫人とともに「殉死」した。享年63。

                   ◇

【用語解説】台湾協会の役員

 台湾協会は明治31(1898)年4月2日に発足した。当初の役員は会頭に桂太郎、幹事長に水野遵、会計監督が大倉喜八郎といった顔ぶれだった。水野は前の台湾総督府民政局長で、学校設立にも熱心だった。桂とともに台湾協会学校の生みの親ともいえる。大倉は大倉財閥の創立者である明治を代表する経済人だった。このほか評議員には、ルーズベルト米大統領の学友で日露戦争講和の地ならしをした金子堅太郎やジャーナリストの田川大吉郎らも名前を連ねていた。

(産経ニュース2010.9.4)

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