斉明天皇陵ほぼ確定 八角形墳 奈良・牽牛子塚古墳
天智、天武両天皇の母・斉明天皇(在位655~661年)の墓とされる奈良県明日香村越の牽(けん)牛(ご)子(し)塚(づか)古墳(7世紀後半)で、墳丘のすそを八角形に囲む敷石や石室を囲んだ巨大な石柱が出土し、明日香村教委が9日、発表した。天皇クラスの墓に限定される八角形墳だったことが分かり、被葬者は斉明天皇であることがほぼ確実になった。
敷石は墳丘の北西側で幅1メートル、長さ16メートル分を確認。八角形のうち3辺で、長方形に加工した凝(ぎょう)灰(かい)岩(がん)(一辺30~60センチ、厚さ30センチ)を3列に敷き詰めていた。墳丘の規模は対辺長が約22メートルで、敷石の外側には2重に砂利が敷かれていた。
墳丘からはレンガ状に加工した30センチ四方の凝灰岩が出土し、築造当初は墳丘斜面にピラミッド状に積み上げていたとみられる。
石室(幅5メートル、奥行き3・5メートル、高さ2・5メートル)は巨大な凝灰岩をくり抜いた構造で、重さ推定70トン。中央を壁で仕切り、2人用の合葬墓として造られていた。
また、石室を囲む柱はいずれも高さ2・8メートル、幅1・2メートル、厚さ70センチで、3本分を確認。凝灰岩より硬い石(せき)英(えい)安(あん)山(ざん)岩(がん)が使われ、石室を保護する目的があったという。石室は入り口部分を除き、16本の柱で囲っていたと推測される。
石室の凝灰岩は約15キロ北西の大阪、奈良府県境の二(に)上(じょう)山、石柱の安山岩は二上山に近い寺山から運ばれてきたとみられている。
一方、墳丘の崩落や石室の亀裂が確認され、南北朝時代の正平16(1361)年に発生した正平南海地震などで大きく損壊した可能性が高いことも分かった。
牽牛子塚古墳は大正時代初めと昭和52年の調査で、石室内から漆を塗った麻や絹などの布を重ねた最高級の棺「夾(きょう)紵(ちょ)棺(かん)」の破片、七(しっ)宝(ぽう)焼の飾金具、人骨などが出土。日本書紀に、娘の間(はし)人(ひとの)皇(こう)女(じょ)と合葬されたとの記述がある斉明天皇の墓との説が有力視されていた。
八角形墳については、30年以上前の中尾山古墳(明日香村)の発掘で、文武天皇の墓の可能性が極めて高いと判明。宮内庁管理の天武・持統天皇陵(同村)も八角形墳とされている。
現地見学会は11、12両日の午前10時~午後4時。近鉄吉野線飛鳥駅から徒歩約15分。駐車場はない。
河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)の話「八角形墳だったことが発掘調査で証明され、斉明天皇の墓であることが確実になった。大土木工事や九州遠征など、女性とは思えない精力的な働きをしたのは、男性以上に徳を示そうとしたからだろう。巨石を使った立派な古墳は、斉明天皇のこうした思いが込められたともいえる」
■斉明天皇 夫・舒明(じょめい)天皇の死を受け、642年に皇極天皇として即位。645年の大化の改新の混乱で退いたが、655年に斉明天皇として再び即位した。百済救援のため九州へ遠征したが、661年に筑紫朝倉宮(福岡)で死去。日本書紀には飛鳥の都に「大規模な運河造営のため3万人を動員し、人々は『狂心渠(たぶれごころのみぞ)』とそしった」と記され、庶民を苦しめた天皇ともいわれる。(産経ニュース2010.9.9)
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特定できる解析力が凄い。
しかし、この時代は神秘的である。
日本の歴史は伝説と史実が一致している証明だ。
すばらしき国、日本
血筋
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