【紅陵に命燃ゆ】その1 桂太郎と台湾協会学校
■見直されるべき「名宰相」
≪終生吉田松陰を敬慕≫
第11代にして6人目の首相、桂太郎の墓は東京・若林の松陰神社に隣接して建っている。
東急田園都市線の三軒茶屋駅でチンチン電車のような東急世田谷線に乗り換えると、3つ目に松陰神社前という駅がある。
長州・萩の松下村塾で多くの幕末の志士を育てた吉田松陰は1859年、安政の大獄で刑死した。遺骸(いがい)は刑場のあった小塚原にそのまま埋葬された。
これを憤った高弟の高杉晋作は3年余り後の文久3(1863)年正月、伊藤俊輔(後に博文)らを率いて遺骨を長州藩が所有していたこの地に改葬し、立派な墓を建てた。明治維新とともに、松陰は神様となり、松陰神社が誕生する。
桂太郎は同じ長州藩の出身だが安政の大獄のときは、まだ11歳だった。だから松陰から直接学んだことはない。
しかし叔父が松陰の友人で、松下村塾の運営にも協力していたことから、親しみを持っていた。敬慕もしていた。だから大正2(1913)年に亡くなるとき、遺言により松陰神社の隣に葬られることを望んだ。
今、坂本龍馬の人気もあって明治維新ブームと言っていい。松陰神社を訪れる歴史ファンは多い。だが松陰の墓の次に桂の墓にも、という人はほとんどいない。
墓の場所がわかりにくいこともある。だが、近代史の中で桂の影はいかにも薄い。いや、正当な評価を受けてこなかった。そのことの表れといっていい。
桂は明治34年6月以来、3次にわたり7年10カ月半も首相を務めた。これは伊藤博文や戦後の吉田茂、佐藤栄作もかなわない、歴代最も長い在任期間である。
しかも最初の在任中には、満州から朝鮮半島へと南下してくるロシアと戦うことを決意、勝利に導いた首相でもある。
≪「山県直系」で損な評価≫
それなのに今、人名辞典などを見ると「藩閥政治家」「軍閥政治家」といったマイナスイメージで片づけられることが多い。ひどいときには、「山県有朋の傀儡(かいらい)」である。
たしかに桂は長州藩出身の陸軍軍人である。「長州閥」にも「陸軍閥」にも属していた。その双方の「閥」の頂点に立っていたのが山県だった。桂はその山県の影に寄り添うようにして、陸軍大臣から首相にまで上りつめた。
山県有朋も優れた軍人であり、政治家だった。だがその真骨頂は明治における官僚機構と軍システムの構築にあり、いわゆる「政党政治」とは距離を置き、対立さえしてきた。
その分、人気はなかった。政党政治家として抜群の声望を誇った大隈重信や尾崎行雄、原敬らと対照的だった。そして直系の桂も、山県系というだけでそんな目で見られ、損をしたと言える。
日米安保条約改定という国家百年の計をなしとげながら、いまだに「強権政治家」としか見られない同じ山口県出身の岸信介とよく似ている。
特に大正元(1912)年、3度目の内閣を組織したときは、政党や民衆の反発をもろに受けた。宿敵の尾崎は、桂が天皇の詔勅により政局を乗り切ろうとしたことを「玉座(ぎょくざ)をもって胸壁(きょうへき)となし、詔勅をもって弾丸に代え…」と、糾弾した。
歴史的名演説とされるが、おかげで桂はわずか2カ月で首相の座を明け渡す。結果的には晩節を汚すことになった。
≪「首相兼校長」の教育者≫
だが桂は決して「山県の傀儡」ではなく、「閥」を背にした強権的政治家でもなかった。ニコッと笑って相手の肩をたたき、丸め込むから「ニコポン」というあだ名があったほど人なつこく、近代的な政治家だった。
日露開戦のとき、元老の伊藤や山県、それに井上馨らは開戦に消極的ないしは慎重だった。明治維新の「火の粉」をかいくぐってきた彼らにとって、命がけで作った新しい日本を、戦争で危険にさらすのは忍びなかったのだ。
だがその少し後の「維新第二世代」である桂や外相、小村寿太郎らは次の世界を見ていた。彼らにすれば元老らに従い、ロシアとの戦いを回避することは、日本にとって「座して死を待つ」に等しかった。
桂は小村とともに巧みに元老らを説き、ロシアと戦うための日英同盟の締結、そして開戦にとこぎつけたのだ。鋭い国際認識のなせる業であり、結果論ではなく、この判断が当時の日本を救った。日本の近代史に残る「名宰相」と言っていい。
その桂太郎に、これも今あまり知られていないもう一つの素顔がある。教育者としての顔である。桂の墓に添えられた地元・世田谷区教育委員会の説明板には、こう書いてある。
「松陰を敬慕して、自らも明治33年、台湾協会学校(現拓殖大学)を創立し、永く校長として育英に尽くした」
台湾協会学校は明治31(1898)年4月に創立された台湾協会が設立したもので、今年で110周年を迎えた拓殖大学の前身である。台湾協会の初代会頭も桂だった。
台湾協会学校は明治37年には台湾協会専門学校、40年には台湾協会の東洋協会への名称変更に伴い東洋協会専門学校、さらに大正7(1918)年には拓殖大学と名前を変える。
その間、桂は明治33(1900)年の創立から亡くなる約1年前の大正元(1912)年9月まで12年もの間、校長を務めた。首相在任期間は「首相兼校長」という異例の立場だった。
その台湾協会学校-拓殖大学は今年創立110年を迎えた。日本の大学史に異彩を放つその歴史は日本の近代史そのものといっていいだろう。
(文 特別記者・皿木喜久)
◇
【プロフィル】桂太郎
1848年1月(弘化4年11月)長州・萩に生まれる。戊辰戦争で東北各地を転戦、維新後の明治3年、ドイツに留学し軍制を学ぶ。帰国後陸軍に入り、ドイツ日本公使館付駐在武官、陸軍次官などを務め、日清戦争には第3師団長として出征。明治31年第3次伊藤内閣の陸軍大臣となり、34年6月、第4次伊藤内閣瓦解を受けて第11代首相に。以降西園寺公望と交代で首相を務める「桂園時代」を築いたが、大正2年2月、第3次桂内閣が総辞職した。この間、台湾協会会頭や台湾協会学校校長などを務めた。同年10月10日、65歳で死去。 ◇
■連載にあたって
拓殖大学の前身、台湾協会学校は明治33年9月、行政科と実業科で開校した。当初は東京・麹町区富士見町の和仏法律学校を間借りしてのスタートだったが、11月、小石川区茗荷谷に新校舎が完成し、移転した。現在の文京キャンパスである。「谷」の名はつくが、南の方向から見ると小高い丘になっており、楓(かえで)の木が多かったことから、「紅葉が丘」とも呼ばれていた。
このため学生たちは大学を「紅陵」、また自らを「紅陵健児」などと呼ぶようになった。戦後一時、「紅陵大学」と校名を変更したこともあった。この連載のタイトルは、この「紅陵」からとらせてもらった。拓殖大学創立110年に合わせ、紅陵健児たちの熱い想いと、彼らが生きた日本の110年の歩みを15回にわたり追いかけてみたい。(産経ニュース2010.8.28)
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