【紅陵に命燃ゆ】その3 後藤新平と台湾
■「大風呂敷」による緻密な治世
≪気宇壮大な構想力持つ≫
明治から大正期の政治家、後藤新平は「大風呂敷」と言われた。官僚出身だが、日本人としては規格外の構想力の持ち主だったからである。
中でも大正12(1923)年9月2日、つまり関東大震災の翌日に発足した山本権兵衛内閣の内務大臣となったときの「大風呂敷」は有名だ。
後藤は自ら設置した帝都復興院の総裁を兼務する。そして米国から都市計画専門家、チャールズ・ビアードを呼んで、ピカピカの東京復興案を練り上げる。
国家予算が15億円ほどの時代に約40億円かけて首都を作り変えようというものだった。東銀座から日本橋を抜け郊外まで、百メートル道路を走らせるといった気宇壮大(きうそうだい)な計画もあった。
もしその通り実行されていればその後の東京は、今とは大分違った風景となっていたはずである。だが議会などから「東京だけに大金はかけられない」と猛烈な反対を受ける。承認されたときは10分の1程度に縮小されていた。
もともと医者だった後藤が官僚や政治家として頭角を現すのは、明治31年、乃木希典の後任として台湾総督となった児玉源太郎のもとで総督府民政局長(後に長官)をつとめたのがきっかけだった。
児玉は日清戦争直後、陸軍次官兼軍務局長として、戦地から復員する兵士たちの検疫を担当した。そのとき児玉を補佐したのが元内務省衛生局長の後藤だった。その手腕を評価した児玉が、今度は台湾統治の補佐役として抜擢(ばってき)したのだ。後藤は明治39年まで実に8年間も、台湾という新たな領土の実質経営に当たる。
2人が赴任したときの台湾は、前回も書いたように、「土匪(どひ)」と呼ばれた台湾武装集団が日本への抵抗を示していた。一方では、日本から一攫(いっかく)千金をもくろんで流れ込んでくる官吏や商人たちの腐敗といった問題があった。
≪比目魚を鯛にはできず≫
だがはそれを力ずくで押さえ込むことはしなかった。後藤には、「鯛の目と比目魚(ヒラメ)の目」といういささか突飛な例えの「哲学」があり、常々こう語っていた。
「比目魚の目を鯛の目にすることはできんよ。(中略)比目魚の目が一方に二つ付いているのは、生物学上その必要があって付いているのだ。それをすべて目は両方に付けなければいかんといったって、そうはいかんのだ。政治にもこれが大切だ」(鶴見祐輔『正伝 後藤新平3』)
その社会の習慣や制度が生まれてきた理由を無視して、文明国の文化や制度を押しつけるのは「文明の逆政」であると断じる。その上で「まずこの島の旧慣制度をよく科学的に調査して、その民情に応ずるよう」指示した。
このため「台湾における旧慣調査という文化人類学では現在でも世界的に偉業である大きい調査の取り組み」(拓殖大学創立百年史編纂室編『世界に天駆けた夢と群像』)が始まった。
その結果、旧慣の一つで住民が相互監視などする「保甲」を利用した警察制度を確立したのをはじめ、新しい制度が生まれた。
日本への台湾割譲のさい清国の李鴻章が伊藤博文に「貴国は手を焼くよ」と忠告したという阿片(あへん)吸引の「悪習」もあった。だがこれも直ちに禁止するのではなく、専売制度を敷くことにより吸引者を暫減させることに成功した。
産業面では、農政学者の新渡戸稲造を技師として招いた。彼も全島の自然生態を徹底調査の結果、サトウキビに注目、糖業の振興を提言した。
台湾総督府の技師で南部、嘉南平野開発のため烏山頭水庫(うざんとうすいこ)というダムを建設、台湾で今も尊敬されている八田與一も綿密な調査結果によっていた。
≪綿密な「旧慣調査」から≫
後藤の「台湾改造」はスケールの大きさでは「大風呂敷」と言えなくもなかった。しかし「帝都復興」計画同様、綿密な調査に基づいていたことは事実だ。
その後藤が新しい「台湾」への夢を託したのが、実は台湾協会学校、後の拓殖大学の若き学徒たちだった。
後藤は陸中(岩手県南部)水沢藩の出身だが、陸軍兵士の検疫業務を通じて、長州出身の軍人、児玉源太郎に見込まれ台湾に渡ったのは前に書いた通りだ。その縁で児玉の長州・陸軍の先輩、桂太郎にも急接近する。明治41年には第2次桂内閣の逓信相として入閣している。
明治31年、桂を会頭とする台湾協会が設立されると、初代の台湾支部長をつとめる。33年に台湾協会学校が開校した翌年には、民政長官として学校を訪問、講演でこう訴えている。
「この学校なかりせば、ひとり台湾のみならず帝国の拓殖事業、すなわち殖民事業というものが成り立ちあるいは成功すべき目的はない」
欧米列強による植民地獲得競争が激化するなか、日本が生き抜くため台湾経営に奮闘している後藤の危機感や台湾協会学校への期待がヒシヒシと感じられる。
そして大正8(1919)年には第3代の学長に就任する。校名は台湾協会専門学校、東洋協会専門学校などを経て拓殖大学となっていた。
後藤は亡くなる昭和4年まで兼任を含め10年間学長をつとめた。この間、大学令に基づく正式の大学としての認可を得るなど、体制強化を成し遂げている。また学長就任前の大正6年には、台湾総督府時代の部下だった新渡戸稲造が学監となっている。
新渡戸は「少年よ大志を抱け」のクラーク博士で知られる札幌農学校(北大)で学び、渡米して経済学などを修めた当時ピカ一の国際人だった。英文で「武士道」について書いた愛国者でもあった。大正9年国際連盟事務局次長に就任するまで、拓殖大学の授業で植民政策を教えた。
後藤とともに、当時の学生たちに深い感銘を与えたのである。(文 皿木喜久) ◇
【プロフィル】後藤新平
ごとう・しんぺい 安政4(1857)年現在の岩手県生まれ。須賀川医学校卒。内務省衛生局長、臨時陸軍検疫部事務官長などを経て明治31年、台湾総督府民政局長。41年には初代満鉄(南満州鉄道)総裁に就任。第2次、3次桂内閣逓信相、寺内内閣外相、東京市長、山本内閣内務相などを歴任、外相時代にはシベリア出兵にかかわる。一時は将来の首相候補と言われた。昭和4(1929)年没。享年71。
◇
【用語解説】戦前の校長、学長
台湾協会学校の初代校長は言うまでもなく桂太郎である。桂は大正元年9月まで12年間校長を務め、この間名称は台湾協会専門学校、東洋協会専門学校へと変わった。
2代目校長は小松原英太郎だった。ジャーナリストから官界に転じ、埼玉県知事や内務省警保局長、内務次官などを経て第2次桂太郎内閣で文部大臣として入閣している。大正7年に拓殖大学と名称変更し、小松原の途中から「学長」となった。
3代目の後藤の後、昭和4年、永田秀次郎が4代目学長に。東京市長として後藤とともに東京復興につくし、学長就任後、拓務相、鉄道相などを務めた。さらに昭和18年には軍人出身で陸相などをつとめた宇垣一成が第5代に就く。戦前はいずれも閣僚を経験したことになる。
(産経ニュース2010.9.11)
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