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2011年2月26日 (土)

シリーズ激動の昭和 総理の密使~核密約42年目の真実~

 昭和史のさまざまな局面をドラマとドキュメンタリーを融合させて番組化し、好評を博しているTBS「シリーズ激動の昭和」。今回その第4弾となる『シリーズ激動の昭和 総理の密使~核密約42年目の真実~』を2月21日(月)よる9:00~11:09にお送りする。
 沖縄返還を巡るアメリカとの交渉に奔走した「総理の密使」若泉(わかいずみ)敬(けい)役を実力派俳優の三上博史が演じる。
昭和44(1969)年、日米首脳会談にて決定した沖縄返還。時の総理、佐藤榮作は「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず」という非核三原則をかかげ、「核抜き」での沖縄返還に成功し、のちにノーベル平和賞を受賞するなど世界的な評価を受ける。
 ところが、実は日米政府の間で、「有事に際しては、沖縄への核兵器の再持ち込みを認める」という秘密合意文書を交わしていたのだ!非核三原則の「持ち込ませず」に反するこの「密約」は通常の外交ルートではなく、総理の命を受けたひとりの「密使」、若泉敬という人物によって結ばれたものだった。
 若泉は、新進気鋭の国際政治学者だったが、「戦争によって失った領土を、武力によらず取り戻す」という史上類のない難しい仕事に情熱を注ぎ、人脈を駆使して、交渉を妥結へと持ち込む。そして、秘密交渉を担った若泉と、彼の結んだ"密約"の存在は、人知れず歴史の中に消えていくはずだった。しかし、返還から22年後、若泉は沖縄返還交渉の裏舞台と「密約」について書いた著書「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版し、返還の「闇の歴史」を明らかにする。墓場まで持っていくはずだった秘密を、彼はなぜ暴露したのか?
 この番組では、沖縄返還の秘密交渉の裏に隠された「若泉敬」という人物の高揚と苦悩、彼が背負っていた時代をドラマとドキュメンタリーで丁寧に描いていく。戦後の「闇の歴史」を明らかにする『総理の密使~核密約42年目の真実~』

                        

1966年頃から、面識のあった愛知揆一の紹介で佐藤首相に接触するようになる。佐藤は「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わったとは言えない」と演説したように、沖縄返還に並々ならぬ熱意を持って臨んでいた。翌1967年福田赳夫自民党幹事長を通して、沖縄問題についての米国首脳の意向を内々に探って欲しいとの要請が伝えられ、これを期に密使として度々渡米し、極秘交渉を行うこととなる。若泉と会ったのは国家安全保障会議(NSC)スタッフのモートン・H・R・ハルペリンであった。ハルペリンは沖縄返還交渉の方針を決めた国家安全保障覚書(NSDM)13号の起草者であった。

「核抜き・本土並み」返還の道筋が見えてきたところ、日米首脳会談直前の1969年9月30日キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官より、「緊急事態に際し、事前通告をもって核兵器を再び持ち込む権利、および通過させる権利」を認めるよう要求するペーパーが提示された(なお、密使としての交渉に際して、若泉は偽名「ヨシダ」、キッシンジャーは偽名「ジョーンズ」を用いた)。1969年11月10日 - 11月12日の再交渉で、若泉は「事前通告」を「事前協議」に改めるよう主張、諒解を得る。この線で共同声明のシナリオが練られることとなり、同年11月21日に発せられた佐藤=ニクソン共同声明で、3年後の沖縄返還が決定されることとなった。

その後は現実政治に関与することなく、学究生活に戻った。なお極秘交渉の経緯を記した著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋1994年)において、核持ち込みと繊維問題について作成した日米秘密合意議事録の存在について触れている。同書によれば、佐藤とニクソンは、大統領執務室隣の小部屋で、二人きりになって署名したという(この覚書は佐藤により持ち去られ、のち2009年に本人宅で発見された)。

同書の上梓後、1994年6月23日付で大田昌秀沖縄県知事宛に「歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を取り、国立戦没者墓苑において自裁(自殺)します」とする遺書を送り、同日国立戦没者墓苑に喪服姿で参拝したが自殺は思いとどまった。

その後、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』英語版の編集に着手。完成稿を翻訳協力者に渡した1996年7月27日、福井県鯖江市の自宅にて逝去(享年67)。公式には腹膜炎ということになっているが、実際には青酸カリでの服毒自殺だった。なお、2002年には、英語版がハワイ大学出版局から公刊された。また『正論』2006年9月号に、英語版序文の原稿が掲載されている。

若泉の自殺の報を聞いた大田は「核密約を結んだことは評価できないが、若泉さんは交渉過程を公表し、沖縄県民に謝罪し、『結果責任』を果たした。人間としては信頼できます」とコメントしている。

核持ち込みについての密約は、信夫隆司2005年までに機密指定が解除された米政府公文書から、密約を裏付ける文書を発見した。キッシンジャーからニクソンへのメモで、日米間の密約を示す「共同声明の秘密の覚書」の存在に触れ、覚書が「核問題」に関するものであることを明らかにしている。日本側での所在は長らく確認されず、日本の政府・外務省は密約の存在を否定していたが、2009年12月に佐藤栄作の遺品にこの密約と見られる「合意議事録」が存在し、遺族が保管していたことが報道された。

また、2010年3月9日、鳩山政権になってから、岡田克也外務大臣の命令で、核密約があったか否かを調査してきた有識者委員会(座長:北岡伸一東京大学教授)は、正式に(広義の)核密約があった旨の調査結果を報告した。これを受け政府(鳩山内閣)、外務省(岡田外相)はこれまでの、自民党政権および新生党政権下での、公式にはなかったとされてきた見解を改めた。

ただし、日本国政府が認めたのは初めてであるが、関係者の間では密約はあったというのは半ば常識化されていた。たとえば、この有識者委員会の座長を務めた北岡は、その著書『自民党――政権党の38年』(読売新聞社、1995年)の佐藤内閣の沖縄返還をめぐる記述において、若泉の『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』を紹介し、若泉によれば「密約があったという」と記述している。

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