【正論】元駐タイ大使・岡崎久彦 日本はどうなるのかと問われて
昨年、私は不思議な経験をした。
道を歩いていると、知らない人がツカツカと歩み寄って、「日本はどうなるのでしょうか」と問いかけてきた。それも、一度ならず三度もあった。
恐らく、前なら、「どこか新聞で見た顔だな」と思いながら、黙って通り過ぎて行った人たちなのであろう。それが、抑えきれない不安感を訴えてきたのである。
不思議なのは、三度とも、昨秋の尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件や北朝鮮による韓国砲撃という、誰の目にも明らかな脅威が見えて来る前の昨春だったことである。その時点で日本国民は日本の前途に深い不安を抱いたのである。
そのころのことなどは、いずれ人々の記憶から消えてしまうと思う。また覚えている必要もないかもしれない。ただ、あまりにも異常な経験だったので、それがどういうことだったのか、考えて分析しておきたいと思うのである。
当時は、鳩山由紀夫政権が普天間飛行場の移設問題で迷走していた。鳩山首相がオバマ米大統領に「トラスト・ミー」と言った直後に信頼を裏切る発言をし、それを釈明しようとしても大統領が会ってくれない。やっと、食事の際にヒラリー・クリントン国務長官の隣席に座って、意思が疎通したと新聞に漏らすと、クリントン長官はわざわざ日本の大使を招致して私は何も了承していない、と伝えたりしたころのことだった。
≪鳩山政権で崩れた国民の信頼≫
国民は政府がちゃんと機能していないと思うと不安になるのである。何のかのいっても日本人ほど政府を信頼している国民はない。
かつて韓国の哲人、兪鎮午氏は私に語ってくれた。「植民地時代日本人は韓国人には愛国心がないと軽蔑したが、韓国人にも愛国心はある。ただ、韓国人は歴史の中で政府の恩恵を受けた記憶が少ない。それに反して日本人はいざという時は政府と国民が愛国心で結束する。愛国心の表れ方が違うのだ。違うということと、善しあしということは別のことだ」と。
欧州でも中国、韓国でも、個人はいざという場合に持って逃げる貴金属や宝石は所有している。日本人はその点、全くノーテンキで、有り金を全部銀行か郵便局に預けて安心しきっている。国家、社会を信用しているのである。
また、官僚に対する悪口は言いたい放題であるが、それでも、政治は時として乱れても、行政は国民の利益を守ってくれると思っていた。それが、官僚バッシングを目の当たりにして、せめて行政組織だけは頼りになるという安心感も持てなくなったのである。
そして、口では対米追随などと批判しても、最後には米国が日本を守ってくれると思っていた。
それが、鳩山政権の時に、全て崩れてしまったのである。
この経験を他人に話しているうちに、これが初めてではないという記憶が脳裏をよぎった。
≪戦争末期、二・二六にも似て≫
私の記憶に、昭和20年という年がある。それまで、国民は緒戦の勝利に酔っていた。ところが、日本爆撃が始まって被災者は巷(ちまた)にあふれ食料も乏しくなってきた。その時、誰もが口にした言葉が、「日本はどうなってしまうのでしょうか」だったことを覚えている。
政府は戦況を隠していたが、政府が言うことと現実との間の乖離(かいり)は国民の目に明らかになった。日本人が政府への信頼を失ったもう一つの時期だったのである。
さらに遡(さかのぼ)れば二・二六事件がある。6歳だった私も当時のことはよく覚えている。大人たちは見通しのない将来に戦(おのの)いていた。
明治維新から数えて百年たったころ、老人たちに人生で何が一番のショックだったかを訊(き)いたところ、日露戦争も大震災も大恐慌も敗戦も経験している彼らが挙げたのは、二・二六事件だった。戦争も敗戦もいかに辛くても政府と国民は一体だった。しかし、日本近代史で唯一のクーデター、二・二六事件の時は、国民は頼るべき政府を失ったと感じたのである。
幸い、こうした国民の心配ももう過去のことになりつつある。
≪集団的自衛権容認で安心を≫
その後、中国、北朝鮮の挑発があったこともあり、鳩山政権時代とは雰囲気が一変している。菅直人政権は日米同盟基軸を高らかに謳(うた)い上げ、米国もこれに応じている。防衛省が南西諸島防衛を言っても、米韓演習にオブザーバーを派遣しても、どこからも反論の出ない雰囲気となった。官僚たたきももう前のようなことはない。
これは日本民族の英知だと思う。国民感情はここまで来ている。改革のためには与謝野馨氏まで迎え入れた度胸のある菅内閣ではないか。この際、過去の行きがかりなど離れて、来(きた)る日米首脳会談で集団的自衛権の行使と武器輸出三原則の見直しを宣言し、日米同盟をより強固にして国民の不安感を悉(ことごと)く払拭してほしい。
日本の防衛費負担が少なすぎることは今後とも、日米同盟強化の障害ではあろうが、当面、この経費不要の措置だけでも、同盟を抜本的に強化し、国民に深い安心感を与えることができる。(産経ニュース2011.2.10)
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