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今回は、OB9回・・・
「なんも言えねえ!」
*藤岡GC西:out58(19)+in51(20)=109(39)
http://www.accordiagolf.com/guide/3570037/
前半×:後半×
××最初のホール慎重に!
×△最後のホール慎重に!
××ドライバー:芯に当てる
--FW:芯に当てる
×△アイアン:ダウンブロー
××アプローチ:転がしor52度
××バンカー:1打で出す
××パット:1パット以下0回、3パット以上2回
バーディー0、パー0、ボギー7、ダブルボギー6、トリプルボギー以上5。
5回目の「昭和の日」を迎えた。この日は言うまでもなく昭和天皇の誕生日だった。平成になり「みどりの日」となっていたが、国民の強い願いもあり「昭和の日」と衣替えし「みどりの日」は5月4日に移された。
祝日法によると「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日とされている。それだけに「敗戦以来の国難」と言われる東日本大震災から50日目にこの日を迎えた意義は大きい。
六十余年に及んだ昭和の時代は、あの大戦による国土の荒廃だけでなく、昭和8年の三陸大津波や23年の福井大地震、34年の伊勢湾台風など、数限りない天災に襲われた。昭和の大恐慌や石油ショックなど、経済危機にも幾度となく見舞われている。
だがその都度、危機を乗りこえ国の新たな発展につなげてきたのも昭和という時代だった。根底には長い歴史に培われた経済的底力もあったが、国民が一致団結して困難に立ち向かったことがそれを可能にしたと言っていい。
その強い力添えとなったのは、昭和天皇が国民と苦難を共にされたことだった。
特に日本中がほぼ焼け野原となった終戦直後には、全国を巡幸され国民を励まされた。巡幸中は旅館やホテルではなく、学校の教室に布団を敷き、カーテンをかけてお休みになることもあった。そうした昭和天皇のお姿を見て国民の多くは復興への決意を新たにしたのである。
今回の大震災でも、天皇、皇后両陛下は27日に宮城県の被災地を見舞われたほか、すでに4回にわたり被災地や避難所を訪れ、被災者を励まされた。今後も岩手県や福島県を訪問される予定だ。東京電力の計画停電に合わせ、自ら停電生活も経験された。
昭和のご巡幸同様、被災者だけでなく国民みんなをどれだけ勇気づけているか計り知れない。
大震災からの再建をはかるにあたり最も大切なことは、国民一人一人が「自分の生活さえ守れたらいい」という考え方を捨て、心を一つにすることである。そのためにも、昭和の時代を振り返り、苦難からどう立ち直っていったかを学ぶべきだ。
連休の始まりでもあるが、今年はとりわけ、そのことを確かめる「昭和の日」としたい。
(産経ニュース2011.4.29)
今年のアカデミー賞で、作品賞など4冠に輝いた『英国王のスピーチ』は、吃音(きつおん)症に苦しんだジョージ6世の史実に基づいている。きょうウェストミンスター寺院でケイト・ミドルトンさん(29)と結婚式を挙げる、ウィリアム英王子(28)の曽祖父だ。映画のクライマックスで国王は、第二次世界大戦が始まった1939年9月3日、大英帝国全土に向けて、国民を鼓舞するラジオ演説を成功させる。
▼もっとも国王が真骨頂を発揮したのは、それからだった。ドイツ軍の空襲の最中もロンドンにとどまり、爆撃を受けた地域を王妃とともに訪ねて、人々を慰めた。国民と王室の絆を強めることで、国難を乗り切ったといえる。
▼天皇、皇后両陛下は27日、津波で甚大な被害を受けた宮城県南三陸町と仙台市を訪れ、被災者を見舞われた。いつものように両膝を床につけ、一人一人に声をかけられるお姿から、国民とともに国難を乗り越えてみせる、との決意が伝わってくる。
▼両陛下はすでに、東京都や埼玉県の避難所や千葉県と茨城県の被災地にも足を運ばれている。宮内庁によれば、「一日も早く東北地方に入りたい」との意向を持たれていたという。
▼「昭和の日」といえば、焦土と化した日本が復興を果たす要因のひとつとなった、戦後巡幸を思い出す。昭和天皇は昭和21年2月から9年かけて全国を回り、国民を励まされた。震災5日後、天皇陛下が国民に語りかけられたビデオ映像を、「平成の玉音放送」と呼んだ人がいる。
▼それに倣えば、両陛下のお見舞いはまさに「平成の巡幸」だ。岩手県や福島県の被災者も、心待ちにしていることだろう。ただ、77歳の陛下、76歳の皇后さまのご体調だけが心配だ。
(産経ニュース2011.4.29)
天皇、皇后両陛下は27日、東日本大震災の被災者を見舞うため、日帰りで宮城県を訪問された。津波で甚大な被害を受けた南三陸町を視察後、自衛隊ヘリを使って仙台市の避難所を訪問された。両陛下が東北地方の被災地に入られたのは初めて。
村井嘉浩知事らによると、両陛下は被害の大きさに驚いた様子で、ヘリの中から身を乗り出すようにされていた。陛下は漁業や農業を心配し、漁港を見ると「元に戻るのにどのくらいかかるんですか」などと質問されたという。
仙台市の避難所の体育館では、佐藤美紀子さん(64)が、津波を浴びても花を咲かせたという自宅跡地のスイセンを花束にし、「このスイセンのように頑張りますから」と言って皇后さまに手渡した。
皇后さまは平成7年の阪神・淡路大震災のお見舞いで、皇居で摘んだスイセンを焼け跡に手向けられたことがある。東松島市から自衛隊機で帰京する際には、自ら花束を持たれていた。(産経ニュース2011.4.27)
福岡市内の一人暮らしの女性宅に昨年3月、男らが押し入って約1億6000万円を奪った強盗致傷事件で、女性と兄、姉が母親から相続した現金や土地など計約12億円を税務署に申告しなかったとして、福岡国税局が3月末、相続税法違反(脱税)容疑で3人を福岡地検に告発していたことがわかった。
脱税額は計約5億円に上り、奪われた現金も一部だった。
関係者によると、3人は2008年11月に母親が死亡した際、遺産として現金や土地などを相続しながら、税務署に一切申告しなかった疑いがもたれている。母親は幼稚園や不動産会社の経営などを手がけていたほか、複数の土地を所有する資産家だったという。
女性は自宅や土地、現金を相続。捜査関係者によると、強盗致傷事件直後、まだ数千万円が残っていた。福岡国税局は事件を端緒に強制調査(査察)を行い、3人から事情を聞いたところ、大筋で脱税を認めた。告発を受けた福岡地検は、脱税額を確定し、3人を在宅起訴するとみられる。 (読売新聞2011.4.27)
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脱税は必ずバレるよ・・・
女子ゴルフの第30回フジサンケイレディスクラシックは24日、静岡県伊東市の川奈ホテルGC富士コース(6464ヤード、パー72)で最終ラウンドを行い、首位と5打差の8位で出た金田久美子が前半でボギーなしの5バーディーの快進撃を演じるなどし、通算5アンダーでプロ初優勝を飾り、優勝賞金1440万円を獲得した。今大会でプロ初優勝は10人目。
2打差の2位には李知姫(韓国)、さらに1打差にヤング・キム(韓国)、藤田幸希がつけた。首位で出た昨季の賞金女王アン・ソンジュ(韓国)は10番でダブルボギーをたたくなどスコアを崩した。(産経ニュース2011.4.24)
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やっと勝てたな・・・
最終ホールのパーパットを入れて復活を印象づける優勝を決めると、右手でガッツポーズ。さらに両手を広げて声援に応えた。ツアー勝利は約3年ぶり。近藤は「苦しい時期が続いていたので本当にうれしい。久しぶりで初優勝みたい」と酔いしれた。
単独トップで迎えた最終ラウンドは一時ライバルに並ばれたが、12番パー4で3メートルのバーディーパットを決め、再びリード。15番からの3連続バーディーで後続を振り切った。通算19アンダーは大会史上最多で、自己記録も6つ更新する好ラウンドだった。
第3日、そして最終日と悪天候の影響で長時間の中断があったが崩れる気配はなかった。「技術、メンタルともに安定してできたのは自信になる」。33歳のつぶらな瞳が輝いた。(産経ニュース2011.4.24)
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完璧なラウンドだった。
しかし、スイングが早い!
■1.37年ぶりに戻ってきた軍刀
元合衆国海兵隊中佐ハーマン・H・ルイスが、部屋に入ってきて、言った。「大場大尉、またお目にかかれて幸せです」
昭和57(1982)年、もう終戦から37年も経っているのに、自分のことをいまだに「大場大尉」と呼ぶその男に、大場は「過去をかき乱されたくない」とやや警戒していた。
「あなたに持ってきたものがあります」と言って、ルイスは玄関に戻って、細長い箱を持って戻り、いかにも大事なもののように大場の前のテーブルの上に置いた。
大場は何も言わなかったが、目頭が潤むのを感じた。彼には、中を見なくても、箱の中のものがわかった。大場はルイスに頭を下げ、うやうやしく箱の蓋をとった。「あなたの軍刀ね」と、妻のみね子が溢れる涙を抑えられずに、あえぐような声で言った。
「心から感謝します。ルイス中佐、ありがとう」 37年ぶりに目の前に現れた軍刀は、大場大尉のルイスに対する警戒を破った。
37年前の昭和20(1945)年12月1日、午前9時。サイパン島陥落後1年半もの間、タッポーチョ山に籠もって不撓不屈の戦いを続けてきた大場大尉率いる47名の兵士は、上官から正式な降伏命令を受け、米軍に投降したのだった。
そして、その時に大場大尉がルイス中佐に降伏の印として差し出したのが、この軍刀であった。ルイスは20年前にこの軍刀をカンザス州の在郷軍人会に寄贈していたのだが、その行方をたどり、ニューイングランド州のある少年の寝室の壁に掛けられているのを見つけて、ようやく取り戻したのだった。
■2.大場の戦いを讃えるパーティー
「もう一つ、あなたに見せたいものがあります」と言って、ルイスは上着のポケットから封筒の束を取り出して、テーブルの上に置いた。
「6ヶ月前、あなたに会ってから、私は、今も私に住所がわかっている海兵隊時代の友だち全員に手紙を書きました。これがその返事です」と言って、ルイスはそのいくつかを読み上げた。
それを聞きながら、大場は、その日を思い出していた。
あの日の朝の9時には、いや正確には、8時59分には、私は、私の前で手紙を読んでいるこの男の敵だった。その1分後、私は戦争・・・私の戦争を止めたのだ。あの日、その後起こったことは信じられないようなことだった。アメリカ軍は、私を殺さなかった。
投獄しようとさえしなかった。代わりに、何百人もの若い兵隊たちが私たちを見に押しかけ、私と握手しようとする将校たちが何人か出てきた。
その夜、大場の戦いを讃えるパーティーが開かれ、大場は司令官や大勢の将校たちと握手をし、乾杯をした。大場は自分が帝国軍人にふさわしくないほど、愛想よく返杯し、笑っていることに気がついた。ついその朝まで、これらの人々は敵だったのに。すべてが奇妙な夢のような感じだった。
手紙の一つにはこう書かれていた。「・・・そして、もし、彼が合衆国に来ることがあれば、彼はいつでもわれわれのところに泊まる招待を受けているのだ、ということを彼に伝えてもらいたい」
この手紙の差出人は、ジム・ジョーンズで、パーティーでは感激のあまり酒を飲めなかった男だ、とルイスは紹介した。
「あなたが国のためにしたことを高く評価しているアメリカ人のグループがいるのです」とルイスは付け足した。
■3.「部下たちの命が失われていくのに、自分は何もできない」
その1年半前、昭和19(1944)年7月3日、大場栄大尉はサイパン島の北部ジャングルにいた。大場の属する歩兵第18連隊は満洲からグアム島への移動を命ぜられ、3月に輸送船で釜山を出港したところ、米潜水艦の攻撃で撃沈され、3900名のうち2200名が海底に消えていた。
氷のように冷たい海で18時間も漂い、なんとか1700名が護衛艦艇に救助された。大場大尉を含む、そのうちの一部がグアムではなく、サイパンに送られてきたのだった。
アメリカ軍は6月11日から空襲を始め、15日から上陸開始、日本軍は水際撃退作戦をとったが、そのために見通しのよい海岸線の陣地が艦砲射撃や空襲の犠牲となった。6月下旬には、日本軍は島中央の山岳地帯にあるタッポーチョ山に籠もり、抵抗を続けていた。
彼は満洲や支那ですぐれた兵士であることを証明していた。しかし、このサイパン島では、敵から逃げたり、隠れたりする以外、何もしていないのだ。敵を攻撃するどころか、敵の姿さえ見ていない。それなのに敵の飛行機や重迫撃砲の攻撃を受けて、自分の部下の半数以上が戦死していた。
司令部からの命令で、3日後の総攻撃に備え、一人で歩けるものは攻撃地点のマタンサに集結し、歩けないものは「それぞれが選ぶ方法で、自らの命を断つのを援助される」と部下に伝えた。
命令を終えると、大場は渓谷に通じる小道を歩き、部下たちから見えないところまで来ると、地面に身を投げ出して、すすり泣いた。自分が責任を持っている部下たちの命が失われていくのに、自分は何もできない。私は天皇陛下を裏切り、部下の家族たちを裏切っているのではないか。
手榴弾が炸裂する音が小さな谷間にこだました。歩けなくなった部下が自決している。彼の命令によってだ。
彼は、拳銃を取り出して、自分のこめかみに当てようとした。自らの命を断つ事が、最も名誉ある行動だ。死ねる。死んでも不名誉ではない。もはや迷いはなくなっていた。
■4.「斃れる前に一人でも多くの敵を斃すことが義務だ」
しかし、その途端、心の奥の方から、死ぬまで戦うほうがより価値があるのではないか、という声が聞こえてきた。3日後に予定されている総攻撃で、優れた働きをし、誇りある死に方ができるかもしれない。
そう気づくと、この数週間、心の中を覆っていた霧が晴れていくように感じた。どこでどのように死ねばはっきり分かり、それが名誉あるものであると自覚できた。大場は再び、立ち上がった。
しかし、マタンサに着くと、司令官・斎藤中将は「ここで生命を捨てることが悠久の大義に生きる道」だと率先自決していた。集まっていた将兵たちも、玉砕する覚悟だった。大場はそこに狂信に近いものを感じて、彼らにこう説かずにはいられなかった。
おれたちは戦争をしているんだろう。戦争をしている以上、勝たなければならない。個々の戦闘に敗れることがあっても、最後の勝利を目指すことを忘れてはならないはずだ。
とすれば、われわれは斃(たお)れるとしても、斃れる前に一人でも多くの敵を斃すことが義務だ。それが、天皇陛下の御為に尽くすということではないだろうか?
われわれが死ぬことは、それだけ皇軍の戦力が弱まることなのだ。もし、皇軍の全将兵が斎藤閣下の例にしたがったら、どうなる? もはや戦争は終わりだ。そして、われわれは、天皇陛下や国を、またわれわれの家族を裏切ることになるんじゃないか?
■5.望みを失った者の無気力さ
大場は部下を率いて、総攻撃の先陣として敵陣深く突っ込んでいった。まもなくアメリカ兵の一群と遭遇し、肉弾戦を展開した。「突撃!」と大場は叫びながら軍刀を抜いて、米兵の集団に向かっていくと、敵はあまりにも近くに日本兵を見てびっくりしていた。
軍刀で敵兵の一人を斬り倒すと、別の敵兵の弾丸が大場の頬をかすめた。彼は軍刀を左手に持ち替えると、拳銃を抜いて、その弾丸が来た方向を撃った。撃たれたアメリカ兵がよろよろと立ち上がりながら、もう一度撃とうとした時、大場はそのアメリカ兵に向かって突進し、その手から小銃を蹴り落として、相手に2発を撃ち込んだ。
こうした戦いを続けながら、前進していくうちに、いつしか交戦の音がはるか後ろに聞こえるようになり、大場は自分たちが完全に敵陣の背後に出てしまっていることを覚った。生き残って彼についている部下は22人に減っていた。
大場らの一隊はさらに敵陣深く進んでいき、サイパン島の中央部コーヒー山のふもとに辿り着いた。そこには300名近い日本兵と民間人がいた。兵たちはいろいろな部隊の生き残りで、統率者もいなかった。望みを失った者の無気力さが漂っていた。
彼らの中の軍人たちにさえ、日本の兵士としての不屈さや誇りは、片鱗も見えなかった。何が起こったのか? 武士道の精神は、勝利のときにだけ存在するものなのか? 尽忠の精神も一回の敗北でなくなってしまうものなのか。
■6.敵の銃声が近づいてきた
その日の午後、彼らのはるか下の方で銃声が聞こえた。民間人や兵士たちは、心配そうな眼差しを交わして、わずかな身の回り品を荷造りしはじめた。
小銃の銃声に混じって、自動火器の短い連射音が聞こえた。敵が谷を登って来ていることが明らかになった。民間人たちは、反対の方角へ逃げはじめた。敗残の兵士たちも、民間人と同様に逃げ出した。
大場は彼らに模範を示してやろうという気持ちで、部下たちを二列縦隊に編成し、谷の上流に向かって、整然と移動を開始した。
巨木の林から100メートルほど出て、緩やかな傾斜の草地へ出た所に、塹壕ひとつとタコツボ壕がいくつかあった。この前の攻防戦のとき掘られたものだろう。迎撃にはお誂え向きの場所だった。大場は部下の半数をタコツボ壕に、残りの半数を塹壕に配置した。
敵の銃声が近づいてきた。今までいた陣地のあたりで、逃げ遅れた兵士がいたようだ。大場は部下の方を向いて言った。
いいか。頭を岩から出すな。射撃は、敵が20メートル以内に近づくのを待って開始する。擲弾筒(てきだんとう)の射撃開始も、おれが合図する。
全員、顔を引き締めて頷いた。それまでの打ちのめされた表情はすっかり消え、彼らは再び兵士の顔に戻っていた。彼らに欠けていたのは、統率と敵に遭う機会だったのだ。
■7.最初の勝利
それからしばらくして最初のアメリカ兵が、林から現れた。小銃を腰に構え、25メートルの谷幅いっぱいに横に一列に広がって、ゆっくり上ってくる。同じ隊列で、後から後から続いて現れる。150名はいるだろう。
やがてアメリカ兵によって、斜面の下半分は埋め尽くされた。前方20メートルの所にあった小さな繁みに、先頭のアメリカ兵が達した途端、一斉射撃が始まった。
大場は、岩の陰から躍り出ては、素早く目標を見つけて、拳銃を撃った。部下の一人は「この野郎!」と、歯を食いしばって、機関銃の引き金を引き続けた。
最初の5秒で、10人以上の敵兵が倒れた。何人かの敵は、応戦しようと地面に伏せたが、そのほかのものは、雪崩のように林に向かって逃げ始めた。
投擲筒から発射された榴弾が、弧を描いて、逃げていく敵の真ん中で次々に炸裂した。応戦しようとしていたアメリカ兵も、間断のない大場隊の攻撃にさらされ、ジグザグに逃走し始めた。
「撃ち方、やめ」と大場は叫んだ。そして、敵の残した兵器と弾薬を全部集めさせ、すぐに別の場所へ移る準備をさせた。
■8.「本格的な戦闘を再開したことになる」
大場隊が戦闘場所から500メートルも離れないうちに、敵からの迫撃砲による一斉射撃の轟音が谷じゅうに反響した。敵は彼らがまだ待ち伏せしていた場所にいるものと思って、砲撃を加えていた。
これで大場は二度、敵を出し抜いたことになる。しかし、これで本格的な戦闘を再開したことになる、と大場は覚悟した。彼らはアメリカ軍に挑戦したのだ。もはや敵に知られずに、安全な所に隠れていることはできなくなった。
これから、アメリカ軍が、日本軍の最後の抵抗を根絶するまで、あるいは連合艦隊がサイパン島を奪回しに来るときまで、自分も部下も生き続けてみせる、それが自分の義務だと、改めて決心した。
翌日、散らばっていた敗残の日本兵や民間人が大場のもとに集まってきた。部下の一人が説明した。
彼らは、隊長が昨日米軍に勝ったのを聞いて、隊長の指揮の下に入れてもらいたがっているのです。民間人たちは、隊長に保護してもらえないか、と言っております。
こうして、兵隊は150名近く、民間人は200人近くが大場のもとに集まった。大場大尉の戦いが始まった。
(続く、文責:伊勢雅臣)
大和ハウス工業は22日、2010年12月までの2年間で計32億円の残業代を支払っていなかったと発表した。
天満労働基準監督署による是正勧告を受けた社内調査で明らかになり、未払い賃金は4月の給与支給日に合わせて全額を支払ったとしている。
1月27日に是正勧告を受け、グループの全社員2万5025人について、09年1月~10年12月の勤務実態を調べた。その結果、グループ32社のうち16社で未払いが発覚し、全社員の約4割にあたる9387人が、計32億614万円の残業代を受け取っていないことがわかった。精算された金額は、1人当たり月平均で約1万4000円だった。
残業時間は全体で151万時間を超え、1人当たり月平均で6・7時間。夜間は事業所を閉鎖し、終業時刻を記録する勤怠システムもあったが、サービス残業が横行していたという。(読売新聞2011.4.23)
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こういうの実際は多そうだね・・・
桑田佳祐さん、福山雅治さんら芸能事務所・アミューズ所属のタレントやアーティスト総勢54人からなる「チーム・アミューズ!!」の、東日本大震災被災地支援のためのチャリティーソング「Let's try again」のPVが完成。CD&DVD化も決定した。
桑田さんが書き下ろした詞・曲を中心に、サザンオールスターズの「勝手にシンドバッド」、ポルノグラフィティの「サウダージ」、BEGINの「島人ぬ宝」、福山さんの「桜坂」、Perfumeの「ポリリズム」などといった参加アーティストの代表曲全14曲をメドレーで繋いだ同曲。曲の最後は全員でテーマ曲を大合唱するシーンもあり、トータル9分1秒の大作となった。
すでに4月20日から音楽サイトで配信されているが、CD化も決定。同PVとそのメイキング映像が収録されたDVD付きで、5月25日にリリースされる。(MSNニュース2011.4.25)
■1.東日本大震災のもたらした「不条理の世界」
とある国で開かれたディナー・パーティーでのこと、10人ほどの円卓に各国からの客が並んでいた。各自の自己紹介から会話が始まったが、私が日本から来たというと、当然、大震災の話になった。
皆が心から同情してくれたのは有り難かったが、そのうちに一人の中年女性が深刻な表情で自分の体験を話し出した。その女性はユーゴスラビア出身で、自分の友人や親類が大勢虐殺される中で、なんとかアメリカに脱出したという。
東日本大震災の惨状をテレビで見て、自らの悲惨な体験を思い出したそうだ。私は「日本の震災とユーゴ内戦での虐殺とは、まるで違うのではないか」と思いながら聞いていたが、「待てよ」と思った。
犠牲になった人の立場に立てば、内戦・民族浄化という「人災」と、地震・津波という「天災」の違いなど関係ない。ある日突然、罪もない何千、何万人もの人々が、何の理由もなく命を奪われるという「不条理さ」においては、同じではないか。彼女が体験したのは、そんな「不条理」が支配する世界なのだ。
同様に東日本大震災は、昨日まで「安全と水はタダ」だった日本とは全く違った「不条理の世界」を突然、もたらしたのである。
■2.地震発生4分後に自衛隊8千人出動
たとえば、被災地で支援活動を展開している自衛隊員たちは、子供の遺体を抱きかかえて運ぶこともあるが、同じ年格好の子供をもつ自衛隊員には、これが一番こたえる、という。
いたいけな子どもがなぜ突然、生命を奪われなくてはならないのか。まさに「不条理」の極みである。
そんな思いまでしながら、10万人規模の自衛隊員が「食事といえば乾パンと缶詰だけ」というような被災者と同様の過酷な生活を送りながら、不条理から国民の生命と安全を護るべく救援活動に取り組んでくれている。
震災後1ヶ月での支援状況が、4月14日付け日経新聞にまとめられている。それによると:
・人員・・・・・10万7千人
・艦船・・・・・57隻
・航空機・・・・543機
という展開規模により、次のような被災地支援が行われている。
・人命救助・・・1万9260人
・医官診療・・・1万8200人
・給食支援・・・232万7500食
・入浴支援・・・26万5100人
・遺体収容・・・8512体
・道路復旧・・・290キロメートル
その実際の様子を、自ら医療派遣チームの一員として宮城県石巻市で治療にあたった茂木定之医師が、「被災地で見た自衛隊の活動」と題して、次のように投書している。
・・・特に印象に残ったのは自衛隊員の活動だ。黙々と食糧や資材を運び、土煙の舞う中で道路整備やがれきの撤去をしていた。泥水に胸までつかり行方不明者の捜索をしている姿も見た。
われわれもできる限りの医療活動をしてきたつもりであるが、彼らの活動には頭が下がる思いだった。・・・
まさに地震、津波、その後の飢餓、伝染病、さらには放射能汚染などの「不条理」と戦って、国民の生命と安全を護っているのが自衛隊なのである。
こう考えれば、冒頭のユーゴの女性に言ってやれば良かったと、今さらながら思う。あなたの国の軍隊は十分にあなた方住民を護ってくれなかったようだが、我が国にはこれほど一途に国民を護ってくれている自衛隊があるのだと。
■3.「反自衛隊」から「自衛隊頼みのパフォーマンス」へ
今回の自衛隊の迅速な展開ぶりにも、その一途さが現れている。防衛省は地震発生の4分後、2時50分には災害対策本部を設置し、陸海空3自衛隊計8千人を出動を命じた。この驚くべき迅速さは日頃の準備と訓練の賜物だろう。
阪神大震災の時は、反自衛隊感情の強い関西の自治体が自衛隊への出動要請をためらって、結局、要請が出たのが、震災発生後、4時間以上も経ってからだった。
国土庁防災局が開催した外国特派員向けの記者会見で、地方自治体の対応遅れに対し、政府としてもっと手を打てなかったのかという質問に、担当課長は「自治体の意思を圧殺するのは、戦前の軍国主義復活を求めているように聞こえる」と答えた。
「何千人も死んでいるのにそれでいいのか」という外人記者の声に「私は評論家の相手をしているヒマはない」と怒鳴りつけて、席を立ってしまったという。
さすがに阪神大震災での自衛隊の活躍ぶりから、行政においてもこのような「反自衛隊」的姿勢は陰を潜めたが、今回は逆に政治的パフォーマンスとして自衛隊を利用するという傾向が見られた。
たとえば菅首相は出動人員を当初の2万人から、翌日12日には5万人に拡大すると発表、さらに13日夜には10万人に倍増させると言った。相次ぐ唐突な増員発表について、官邸から防衛省への打診はなかったという。単に派遣人員の数だけでアピールしようという思いつき的なパフォーマンスとしか受け取れない。
しかし、それにも関わらず、自衛隊は首都圏での震災に備え、陸自だけで7万5千人から8万人を集める準備をしていたので、見事に即応できた。
阪神大震災の時に、危機管理の専門家である佐々敦行氏が、「備えあれば憂いなし」をひっくりかえして、「憂いなければ備えなし」と見事な表現をしていたが、今回の菅首相の振る舞いにも、同じことが言えるだろう。
「反自衛隊」から、「自衛隊頼みのパフォーマンス」に姿勢は変わったが、襲いかかる不条理に対しての「憂いなければ備えなし」という本質においては、変わりない。
■4.米軍に対する感謝の握手
今回の震災では、自衛隊と米軍が本格的な共同活動を行った点も見逃せない。米海軍の原子力空母「ロナルド・レーガン」は13日に仙台湾沖に到着し、海上自衛隊第一護衛隊群などと共同で、被災地への物資補給を行った。
たとえば同空母のヘリコプターは、海自の補給艦「ときわ」が輸送してきた非常食糧3万食を宮城県気仙沼市の五右衛門ケ原運動場など3カ所に運搬した。
このような形で動員されたのは、米軍兵士1万6千人、艦艇13隻、航空機133機にのぼる。
4月7日付け産経新聞は、被災者たちが米兵に握手を求めている写真を掲載し、「宮城県気仙沼市の離島、大島でがれき撤去作業を終えた米海兵隊員たちに住民が駆け寄り、感謝の気持ちを込めて次々と握手を求めた」とのキャプションを添えている。
こうした姿がテレビや新聞に報道されて、米軍基地問題を抱える沖縄でも、海兵隊に対する共感の輪が広がっている。
名護市辺野古キャンプ近隣に住む自営業者(63)は「若い海兵隊が物資を届けると言って出動した。何十年も海兵隊と付き合っているが、改めて頼りになると感じた。
那覇市のあるホテル幹部(45)も、「他国で起きた震災の支援に奔走している姿を見て、沖縄に駐留していてよかったと実感した。今回の震災で紛争解決だけでなく、天災対応も含めた新しい日米安保の必要性を感じた。米軍基地を抱えている沖縄から新しい防衛論を発信すべきだ」と語気を強めた。
■5.米軍の支援活動は「不謹慎」!?
米軍の活躍に慌てているのが、「反米」に凝り固まった地元紙である。米軍の救援活動はほとんど報じずに、逆にこんな論調を展開している。
一方で、「新報」は3月17日付け朝刊で、「在沖海兵隊が震災支援 普天間の有用性強調 県内移設理解狙い 不謹慎批判上がる」との見出しで、在日米軍が普天間飛行場の地理的優位性や在沖海兵隊の存在感などをアピールしているとした上で、「援助活動を利用し、県内移設への理解を日本国内で深めようとする姿勢が色濃くにじむ」と主張した。
米軍が今回の支援活動でその存在感をアピールしようとしたことは当然あるだろう。しかし、それを「不謹慎」というなら、被災者はどうなっても良いから、そんな支援活動のアピールをすべきではないと言うのだろうか。
米軍の思惑が何であれ、まずは被災した我が同胞を一人でも多く救ってくれたことに感謝するのが、日本国民としての自然の情であろう。その人情を失っている処に、左翼論者の非人間性が垣間見える。
そもそも国家間の同盟が成り立つには、お互いが相手の存在価値を認識していなければならない。米国は沖縄での基地継続に国益がかかっているからこそ、今回の支援活動で日本国民にアピールするのは当然なのだ。
我が国としても、米国が手を引けば、すぐに中国が手を伸ばしてくるのは火を見るよりも明らかなのだから、こういう時にこそ、日本政府は、中国の前で、日米同盟の緊密さを誇示すべきなのである。
今回、自衛隊と米軍が緊密な連携作戦を展開したのは、軍拡に狂奔する中国への抑止力となる。これも「備えあれば憂いなし」の一つである。
■6.「国民の生活が第一。」という虚構
「憂いなければ備えなし」というのは、民主党政権の本質であった。平成21(2009)年の衆議院議員選挙で政権交代を果たした時のスローガンが「国民の生活が第一。」であった。
当時のマニフェストには、「子ども手当」「公立高校の実質無料化」「年金制度の改革」「医療・介護の再生」などの公約が並び、まさに「国民の生活が第一。」のスローガンそのものであった。
ここには「自衛隊」は登場せず、米軍に対しても「地位協定の見直し」とか「米軍再編」などと「厄介者扱い」である。
「国民の生活が第一。」というスローガンの中には、国民の生活が天災や他国からの侵略に脅かされている、という「憂い」はない。「安全と水はタダ」という信仰の上で、先人たちが苦労して築き上げた国富をばらまいて、票を買おう、という発想でしかない。
鳩山前首相は「昨年の衆院選当時は、海兵隊が抑止力として沖縄に存在しなければならないとは思っていなかった。学べば 学ぶほど(海兵隊の各部隊が)連携し抑止力を維持していることが分かった」などと語ったが、20年以上も国会議員を務めながら、こんな基本も学んでいなかったというのだから、まさに「憂いなければ備えなし」を地で行く人物であった。
今年になって、この抑止力発言を方便だったと発言して、またまた日本中を呆れさせたが、国民の生命と安全をまともには考えていない人物なのである。
さらに仙石前官房長官は自衛隊を「暴力装置」と形容して、世間を驚かせた。自民党からの抗議ですぐに撤回したが、全学連世代の左翼的世界観の持ち主であったことが露呈した。
■7.「本来の日本文化に基づいた新しい日本の登場」
国家の根本的な役割は、国民の生命と安全を護ることである。戦後の半世紀以上もの間、日米同盟に護られた温室の中で、日本国民はこの点を忘れ去っていた。
現行憲法の前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という虚構を信じ込み、その上で「憂い」を忘れ「備え」を蔑(ないがし)ろにしてきた。
その行き着いた先が「生活が第一。」という民主党政権の誕生である。東日本大震災は、「子ども手当」などというバラマキ政治の虚構をあきらかにした。子供たちの生命と安全を守れずして、何が「子ども手当」か。
今回の震災に関して、日本の文化や社会を専門とする米国ジョージタウン大学のケビン・ドーク教授は、こう述べている。
日本国民が自制や自己犠牲の精神で震災に対応した様子は広い意味での日本の文化を痛感させられた。日本の文化も伝統も米軍の占領政策などにより、かなり変えられたのではないかと思いがちだったが、文化の核の部分は変わらないのだと思わされた。
ドーク教授は、その上で「震災への対応で示された団結などは、本来の日本文化に基づいた新しい目的意識を持つ日本の登場さえ予測させる」と論評した。
今回の震災で示された自制や自己犠牲の精神を、一過性のものにしてはならない。それを覆い隠してきた戦後の虚構から目覚め、国民一人一人が、互いのため、国家公共のために何事かをなそうという「本来の日本文化」に基づいた志を持たなければならない。
今回の大震災で、自衛隊諸士が見せてくれた活動は、そのお手本なのである。
(文責:伊勢雅臣)
天皇、皇后両陛下は22日、東日本大震災の被災者を見舞うため、日帰りで茨城県北茨城市を訪問された。両陛下が被災地に入られたのは旭市に続き2カ所目となった。
両陛下は、津波で大きな被害を受けた大津漁港をご視察。近隣の数百人が並んで迎え、口々に「ありがとうございます」と声があがった。両陛下はあちこちが割れている地面を歩きながら、「お体は大丈夫ですか」「学校は楽しいですか」などと声をかけて回られた。
陸に置かれている船を見ると、陛下は「あの船は使えるの?」「海に沈んでいたんですか?」と漁協関係者に質問された。
両陛下は、死者が出た住宅と、行方不明者がいる海に向かって、2回にわたって黙礼された。その後は、家屋が損壊した住民らが避難する市民体育館も訪問された。
橋本昌知事らによると、昼の会食で陛下は、福島第一原発の放射性物質(放射能)の風評被害を心配しながら、「しっかりとした知識に基づいて行動してほしいですね」などと話されたという。
また、会食の弁当には地元で水揚げされた魚料理が入っていたが、陛下は「コウナゴは入っているんですか」と尋ねられたという。コウナゴについては、暫定基準値を上回る放射性物質が検出されたため、出漁を自粛するなどの影響が出ている。
北茨城市では今回の震災で5人が死亡、1人が行方不明となり、茨城県内で最も人的被害が大きかった。(産経ニュース2011.4.22)
今日は完全な二日酔い。
二日酔いではパッティングに影響が出る。
プレー前日の深酒はやめよう!
1番(4-6):1W、4I、56°、3パット
2番(4-4):3I、3I、2パット
3番(4-5):1W、52°、52°、2パット
4番(4-5):3I、4I、8I、2パット
5番(3-4):5I、52°、パター、1パット
6番(5-8):3I(1P)、3I(1P)、3I、7I、2パット
7番(4-6):3I、3I、7I、3パット
8番(3-4):6I、3パット
9番(5-6):3I、3I、6I、56°、2パット
10番(5-7):1W、3I、7I、8I、3パット
11番(4-4):1W、9I、2パット
12番(4-5):3I、4I、7I、2パット
13番(3-4):4I、56°、パター、1パット
14番(4-5):1W、5I、6I、2パット
15番(3-4):4I、3パット
16番(4-5):3I、5I、9I、2パット
17番(5-6):3I、3I、4I、7I、2パット
18番(4-5):1W、7I、3パット
*藤岡GC西:out48(20)+in45(20)=93(40)
http://www.accordiagolf.com/guide/3570037/
前半×:後半△
××最初のホール慎重に!
△△最後のホール慎重に!
○△ドライバー:芯に当てる
--FW:芯に当てる
△○アイアン:ダウンブロー
△△アプローチ:転がしor52度
○○バンカー:1打で出す
××パット:1パット以下1回、3パット以上6回
バーディー0、パー2、ボギー12、ダブルボギー3、トリプルボギー以上1。
私の上半身にはいくつもの火傷(やけど)の痕がある。大戦時の空襲により真っ赤に燃える甲府の街を恐怖に震え逃げ惑いながら負った火傷である。母の里に避難した後、我(わ)が家のあった辺りに戻った私の目の前に広がっていたのは、2つの地場の百貨店が黒く焼け爛(ただ)れて立っているだけ、他は延々の焼け野原であった。
東日本大震災、津波が黒く巨大なエネルギーの塊となって太平洋側の町や村を次々と飲み込み吐き捨て残していった瓦礫(がれき)の山は、幼少期の経験と二重写しとなって私のトラウマを呼び戻す。「第2の敗戦」である。
大震災以前、多くの日本人は国家と共同体に価値を求めず、自由な個として生きることを善しとする気分の中に漂っていた。国家とは口にしにくいから市民社会と言い、国民とも言いにくいので市民と言うような気分である。地球市民などという迷妄の用語を弄ぶ政治家さえいた。私はそういう気分のことをポストモダニズムと呼び、こんな軽薄な気分ではナショナリズム鬱勃たる中国、ロシア、朝鮮半島を近在に擁する日本は彼らと共存することさえ難しいと本欄を通じ何度も主張してきた。
≪感銘与えた自衛隊などの献身≫
実際、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件、ロシア首脳の国後島訪問、北朝鮮軍による韓国・延坪(ヨンピョン)島砲撃事件と、日本の安全を脅かすことごとが起こったものの、民主党政権は主権国家としてのまともな対応を何もしないままに打ち過ごしてきた。のみならず、日本の安全を保障する唯一の制度的装置たる日米同盟を危殆(きたい)に貶(おとし)めて恬然であった。国家観念の希薄な政権中枢部にあっては、国益とは何かが不分明だったのであろう。
しかし、東日本大震災がまぎれもなく顕現したのは「国家」であった。このような非常事態に際しては情報収集と危機管理を徹底して一元化し、国民的な力をみずからに引き寄せて事に当たる政治的凝集力が不可欠である。司令塔たるべき官邸のこの面における対応は信じ難いまでに拙劣であった。その責任はいずれ糾弾されねばならないが、いまは言うまい。
司令塔は機能麻痺(まひ)状態にありながら、それゆえ行動展開には難があったのだろうが、自衛隊、消防、警察、海保などの犠牲を厭(いと)わず被災民の救済に献身する姿に感銘を覚えなかった者は少なかろう。自衛隊は総隊員数の半数10万人余を出動させ、生ける者は能う限り救助し、死せる者は積もる瓦礫を掻き分け探し求め、埋葬に携わって不眠不休の1カ月に耐えた。この光景の中に人々は国家というもののまぎれもない存在を心に深く刻みつけたに違いない。
米軍は2万人近い兵力を投入、空母ロナルド・レーガンをはじめ20隻の艦艇、140機の航空機をもって救助活動を展開した。日米同盟という国家関係があったればこそである。日本は救助されねばならない国家だ、米国にそう認識させる何ものかを日本という国家はもっていたのである。国家なき市民社会などいう物言いがいかに虚妄であったかは自明である。
≪1杯のうどん譲り合う避難所≫
東日本大震災が露(あら)わにしたもう1つは共同体の強靱(きょうじん)性である。共同体なくして人は人生を全うできない。この余りにも当たり前のことをわれわれは忘れ、個として生きることが善きことであるかのような幻想を抱いてこなかったか。温かいうどんが配られると聞いて避難所前に整列した人たちが、配られるのは20数杯だと言われて、受け取ったうどんの茶碗(ちゃわん)を後ろの人に渡し、渡された人がさらに後ろの人に渡していって最後には老人と子供にこれが行き着くといった光景をみて、私の胸はつまる。
共同体を共同体たらしめている精神と原理が、東北地方の農漁村の共同体の中には、しなやかにも生きていたのである。共同体を蘇生(そせい)させねばならない。全うな共同体に支えられずして、全うな国家が存立できるはずはないからである。政権中枢部のぶざまな不作為は、被災地住民からなる共同体の忍耐強い相互扶助によって、辛くも救われているのではないか。
≪「天罰」ではなく「天恵」に≫
日本人の精神の一番奥深いところにある共同体の精神と原理が消失していない以上、いずれ被災地は復興するに違いない。長い平成不況の中を漂い、かといって食うに困るわけでもなく、ただ寡黙に沈殿してきた日本の国民に、国家と共同体の重要性を悟らせたものが東日本大震災であったとすれば、これは「天罰」ではなく「天恵」であったと受けとめねばならない。
「被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体(からだ)を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者とともにそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています」
陛下のこのお言葉の中に、私どもが求めねばならない国家共同体のありようが、深々と表出されていると私は思うのである。(産経ニュース2011.4.21)
アイドルグループ「キャンディーズ」のメンバーとして人気を博した女優の田中好子(たなか・よしこ、本名・小達好子=おだて・よしこ)さんが21日夜、乳がんのため東京都内の病院で死去した。55歳だった。通夜は24日、葬儀は25日で、時間と場所は未定。
伊藤蘭さん、藤村美樹さんと「キャンディーズ」で昭和48年に歌手デビュー。スーちゃんの愛称で親しまれ、「年下の男の子」「春一番」「微笑がえし」など多くのヒット曲を送り出した。時代を象徴するアイドルとして熱狂的な人気を集めたが同53年、「普通の女の子に戻りたい」とグループを解散した。
その後は、女優業に専念。平成元年公開の映画「黒い雨」では、原爆の悲劇に見舞われたヒロインを務め、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞など多くの賞に輝いた。その他の出演作に映画「ひめゆりの塔」「明日への遺言」、テレビドラマ「家なき子」「ちゅらさん」など。
同3年、女優の故夏目雅子さんの兄、小達一雄さんと結婚。同4年に乳がんと分かり、治療を続けてきたが、昨年秋に体調を崩し、入院していた。3月上旬にはテレビのナレーションをこなしたが、今月21日午前に容体が急変したという。
伊藤蘭さんの所属事務所の担当者は「突然の訃報で本人はショックを受けており、コメントを出せる状態ではない」と話した。(産経ニュース2011.4.21)
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本当に残念で悲しい。早すぎる・・・
また昭和が消えていく・・・
JR西日本(大阪市北区)が大阪国税局の税務調査を受け、2010年3月期までの3年間に計約10億円の申告漏れを指摘されたことがわかった。
経費の計上方法を巡る税務処理のミスとされ、国税局は過少申告加算税を含め約3億円を追徴課税(更正処分)した。
JR西などによると、駅舎補修や電車の部品交換などの費用を実施年度に経費計上していたが、国税局はこれによってその年度の損金が膨らみ、申告所得が減ると判断。補修された駅舎などの耐用年数が延びる点をとらえ、「費用は延びた耐用年数で割り、それぞれの年に分散して経費計上すべきだ」と指摘したという。
JR西広報部は「国税局とは見解の相違があった」としている。
(読売新聞2011.4.22)
1.企業を取り巻く環境は激変しています。一度成功したからといって、そこに安住すれば、あっという間に取り残されてしまうでしょう。優秀な経営者ほど、苦言を呈する人がいな
いのが世の常。ならば、自ら経営判断や行動は正しいかを振り返り、改革し続けるしかありません。
2.仕事に関することはもちろん、自分自身の心情も素直に記し、それを読み返すことで自己反省ができる。日記(気分が乗らないときは1行でもいい。とにかく毎日書くこと)は、
思いのほか、経営者の強い味方なのかもしれません。
(参考:「日経トップリーダー」:2010年12月号)
1.人口約4700人の仙台市の秋保。過疎化が進むこの町に、生鮮食品やお菓子、日用品など品揃えは普通のスーパーと変わらない「主婦の店さいち」がある。ただ、このスーパーの特徴は、おはぎを含めた惣菜部門で店の全体の売り上げの5割、年間にして約3億円を占めている。一般のスーパーでは、惣菜の売り上げは10%といわれているから驚きである。おはぎも、300種類以上の惣菜も、すべてスタッフの手づくりなのだ。目指すところは「昔ながらの家庭の味」である。
2.佐藤啓二社長が心掛けていることは、(1)商いで己を磨き、出会いを大切に(2)商売は牛のよだれのごとく、細く、長く、何年もやって いきたい。だからこそ、基礎をおろそかにしない(3)私の人生訓、①商売は信用が第一、②汗水流さないで得た収入は一切受け取ってはダメ、③一生懸命、真面目にやっていれば、何か一つ当たるも のがある、である。
(参考:「致知」:2011年1月号)
片山、石川遼とともに最終組で回った高山忠がリードを守って元賞金王2人に競り勝った。
緊迫した18ホールだった。前半を折り返すと「3人とも口数が減り、雰囲気が重くなった」と高山忠。アプローチを寄せきれなかった12番では片山と石川遼が難なくバーディーを奪い「さすが賞金王。隙を見せると付け込んでくる」と気合を入れ直して逃げ切った。
昨年、夏場に体力不足を感じたという33歳は、オフに中距離を中心に走り込んだ。走った距離は1カ月半で400キロを超えた。体力トレーニング後、疲れた体でボールを打つ練習も終盤の粘りにつながった。
ツアー4勝のうち、3勝が1戦目の高山忠は「開幕男が帰ってきました」とおどけた。「片山さんたちに勝てたことを自信に、毎週優勝争いができるようになりたい」。自己最高の賞金ランク(8位)更新を今季の目標に見据えた。(産経ニュース2011.4.17)
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今回は安定していたよ。
■1.「北朝鮮海域に海保の掃海隊を出してほしい」
海上保安庁の初代長官・大久保武雄が日本橋兜町にあった極東海軍司令部に呼び出されたのは、昭和25(1950)年10月2日のことだった。参謀副長アーレイ・バーク少将は大久保にこう言った。
「元山上陸作戦のために、北朝鮮が敷設した元山港の機雷を除去したい。海保の掃海隊を出してほしい」
大久保は絶句した。海上保安庁の掃海部隊は、国内の港湾、航路の掃海に大きな成果をあげていたが、朝鮮戦争が行われている海域での掃海は戦争行為そのものであり、米国が押しつけたばかりの新憲法に抵触する。
この時、朝鮮戦争は大きな山場に差し掛かっていた。4月に北朝鮮軍が大規模な奇襲攻撃を仕掛けて、国連軍は朝鮮半島南端に追い詰められたが、総司令官マッカーサーの仁川上陸作戦により北朝鮮軍を挟み撃ちにして、戦局を挽回した。
マッカーサーはさらに日本海側の元山に上陸し、朝鮮半島の最も細いくびれた地帯を東西から分断し、北朝鮮軍を袋のネズミとして殲滅しようという作戦に出た。しかし北朝鮮は沿岸にソ連製機雷を大量に敷設しており、それらの除去が不可欠だった。
しかし国連軍で掃海作業にあたっていたのは、わずか数隻の、それも経験に乏しい掃海艇のみで、上陸作戦を行うにはどうしても熟達した日本の掃海部隊の助けを借りるしかなかったのである。
■2.「極秘でやってくれ」
新憲法を盾に「掃海部隊派遣は困難」と回答した大久保長官に対して、バーク少将は「掃海艇がなければ国連軍が敗北するかもしれない。それは日本に不幸な結果をもたらす」と脅した。
大久保長官は事の重大さに、とても一人で決められる問題ではないと、ただちに吉田首相を訪ねて、指示を仰いだ。おりしも、講和条約の締結に向けた交渉が進んでいた時期であり、独立を待望していた我が国にとって、掃海艇派遣拒否はどう考えても得策ではなかった。
「それは困ったな。米国と講和条約の交渉に入ったばかりだから、(掃海を断って講和の)チャンスを逃すわけにはいかない。しかし、やれば国内的に問題になる…極秘でやってくれ」と吉田は答えた。
その日の真夜中、「直ちに出港準備をなせ!」との命令が各地の掃海隊に下された。1時間ほどすると、各艇から次々に「出港準備完了!」の連絡が返ってきた。有事即応の海軍精神が生きていた。掃海隊は任務地は教えられないまま、下関港での集結を命じられた。
■3.「大義」は?
神戸、舞鶴、大湊、呉、門司などから次々に掃海艇20隻、母船1隻、巡視船4隻が下関港に集結した。全船艇の指揮官、艇長が集められ、航路啓開本部長の田村久三が任務を語った。米軍からの命令で、朝鮮水域での掃海にあたって貰う、という内容だった。
重苦しい沈黙が続いた。今まで国内での掃海に取り組んできたが、それには「国家再建のため」という大義があった。つらい危険な作業だったが、それは戦後の窮乏に苦しむ国民を救うために、誰かがしなければならない仕事だった。
海軍軍人として一度は捨てた命を、もう一度、国家、国民のために捧げることは厭わない。しかし、今回は「祖国のため」とか「愛する人のため」ではなく、ただ「占領軍の命令」なのだ。
重い空気を破って質問が出た。「行き先は? 大義名分は? 命令権者は誰か? 米軍の指揮下に入った場合の我々の身分は? 万一のことが起きた時の補償や手当は?」
それから3時間も堂々巡りの議論が続き、「北緯38度線以南の戦闘の行われていない港湾の掃海とする」などの事項が、この場で定められた。しかし、掃海部隊の内々の決め事を米軍が守ってくれるという保障などどこにもなかった。
■4.「今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」
各艇長を通じて、乗員全員に任務の説明がなされ、「下船したい者があれば申し出るように」と伝えられたが、2名を除いて、全員が了解した。
朝鮮へ出動すると知った家族は各地から下関に駆けつけた。岸壁に横付けされている船から夫を捜し出して、「朝鮮には行かないで頂戴! 掃海隊を辞めてうちに帰ってください!」と涙ながらに訴える妻がいた。また夫の胸にすがりついて「日本の戦争は終わったのに、今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」と必死に引き止める妻。隊員たちも必死に家族を説得したに違いない。
10月7日、第一掃海隊5隻、116名が下関を出港。翌朝には総指揮艦艇「ゆうちどり」を先頭とした第2掃海隊7隻が続いた。
米軍の命令で、船名も消され、日の丸を掲げることも許されなかった。夜になっても、灯火はいっさいつけず、暗夜の無灯航行を続けた。
途中で、米海軍の駆逐艦数隻が現れ、掃海部隊の左右両側を護衛するように航行した。目的地は「元山」、「隊内においても、日本に向けても無線は封止」「本艦に続行せよ」との指令が下された。
第2掃海隊指揮官の能勢省吾は、こう記している。
10月10日、夜が明けてみるとついに元山沖付近まで来ていたのである。遙か沖合の方に米第7艦隊らしい戦艦、航空母艦等がずらりとならんでいるのが沖合い遠くに見える。我々の行く処は朝鮮東岸の元山沖であったのかと、はじめて皆はびっくりしたのであった。・・・
これこそ第7艦隊の主力ではないか。元山でこんな大部隊を動かすような大作戦が計画されていたのかと思って私は驚いた。
湾口近くにいる駆逐艦数隻は、陸上への砲撃を行っていて、戦場に来たのだということを、誰しもが感じた。
■5.米掃海艇2隻沈没
米艦から燃料、水、食糧の補給を受け、12日、早朝から掃海作業を始めた。能勢は米軍の4隻の掃海艇を見て目を疑った。全て鋼の船体で、これでは磁気機雷にかかればひとたまりもない。実はそれ以外の掃海艇はすべて米本土に帰されていたのだ。
しかし、その米掃海艇は恐れを知らないかのように、先頭に立って、湾口をめざす。
先頭艦が湾口にさしかかった時である。「ドーン!」という大音響とともに、先頭艦AM275が水煙に覆われた。「やられた! 触雷だ!」艦橋に居合わせたもの皆一様に、声もなく、見つめた。
水柱は10~15秒で消え、同艇は船首を下に、急速に沈下しつつあった。3分ほどで、最後のマストまで見えなくなった。
その時、「ズドーン!」とけたたましい音が耳をつんざいた。湾口南側の島から敵の攻撃が始まったのである。米2番艇は、沈没した1番艇の乗員を救助しながら、艦載砲で反撃する。
しかし、その2番艇も触雷し、「ドーン!」という大音響とともに水柱と煙につつまれ、見る間に横倒しになって、一瞬のうちに沈んでしまった。
3番艇、4番艇も砲撃しつつ、救助作業を行う。日本の掃海艇はただ見守ることしかできなかった。しばらくすると「掃海を中止し、泊地に撤退せよ」との命令が下された。結局、この日、2隻の掃海艇が失われ、戦死者13名、負傷者92名の被害が出た。
■6.行方不明1名
その後、沖合から湾口の島々に、米戦艦、巡洋艦、駆逐艦から、まる一晩、艦砲射撃が行われた。これだけ撃ち込まれたら、北朝鮮の砲撃部隊も壊滅しているだろうと思われた。その後、掃海作業が連日、続けられた。
17日午後3時半、「ドーン!」と足元から突き上げるような大音響が起こった。煙が消えると、日本の掃海艇の一隻が、すでにマストと艦橋部分を残して水没しているのが見えた。能勢は「掃海中止、掃海索を揚げ救助せよ!」と各艇に指示した。
しかし、各艇は掃海索の揚収にもたついている。また周辺は機雷の海で、下手に動けば同じように触雷するかもしれない。歯噛みをしていると、米艦が救助に全力で急行するのが見えた。日本艇の沈没を見て、自らの危険を顧みずに救助に向かうその姿は、日本の掃海部隊員の心を打った。
30分ほどして、米艦から24名を救出、うち重傷3名、軽傷5名との連絡を受けた。1名、中谷坂太郎が行方不明のままであった。
油に覆われた海面から助け出された隊員たちは、入浴が許され、新しい衣服が支給された。北朝鮮の海は10月にはもう冷たく、米艦上でも震えが止まらなかったが、暖かい飲み物を配られて、少し落ち着いた。米兵の真心のこもった親切さが身にしみた。
救助された隊員たちは、翌々日には佐世保に送られ、負傷者は病院へ、元気な者は旅館に収容された。久しぶりの畳の上の生活だったが、皆もう一度、元山に戻って、残してきた仲間を助けたいと思った。
なかでも、石井艇長は「俺は中谷の遺体を見ていない、まだ生きて、助けを待っているかもしれないじゃないか」と、どうしも戻ると言って聞かず、結局、その後、再び、元山に赴いている。
■7.国事に殉じた一青年
行方不明となった中谷坂太郎は厨房員だった。触雷沈没した17日は、掃海作業が一段落し、元山に上陸できそうなので、「ごちそうを作らないとな」と、張り切っていたという。そして、触雷の直前に、後部の船倉に降りていく姿があった。船倉にいたとしたら、触雷爆発ではひとたまりもない。
事故から一週間後、坂太郎の両親の元に米軍大佐が通訳と一緒に訪れて、訃報を告げたが、その際、「瀬戸内海で死んだことにして欲しい」と言った。憲法9条とのからみもあり、国際問題になる事を避けるため、と説明された。
父親の力三郎はかつての陸軍近衛兵であり、それが国のためになるのなら、と黙って米軍大佐の申し出を受け入れた。27日、呉海上保安部にて、海上保安庁葬が営まれ、同艇の乗組員たちも参列したが、彼らが朝鮮で掃海作業に従事していたことは、厳重に口止めされていた。
失意のためか、母親のハナはその後間もなく亡くなり、半年後、父の力三郎も後を追うように息を引き取った。
当時、海上保安庁長官だった大久保武雄のその後の奔走により、30年近く後の昭和54(1979)年、亡くなった坂太郎に「戦没者叙勲・勲八等白色桐葉章」が授与された。大久保は、国事に殉じた一青年を国家として慰霊・顕彰していないことの責任を30年にわたって背負い続け、ようやくせめてもの叙勲にこぎ着けたのだった。
これを機に、坂太郎の兄・藤市は、靖国神社に弟の合祀を申請した。国のために「戦死」したのだから、靖国神社に祀られることこそ坂太郎の本懐であろう、と考えたのである。靖国神社としても、できることなら合祀したいと考えたが、「朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外となっている」とのことで、いまだ実現していない。
■8.日本の独立を早めた掃海部隊の貢献
犠牲者まで出た触雷事故に、一部の掃海艇長から「38度線以北には行かない」などと内輪で取り決めていた事項が守られていない事に関する不満が一気に噴き出した。それをなだめるべく、より安全な掃海方法への変更を米軍に提案したが、米軍は遅れている元山上陸作戦を早く実行するために「予定通り掃海を実行せよ」と聞き入れない。
これに憤って3隻の掃海艇が任務を降りて、内地に引き返した。しかし、入れ替わりに日本から直ちに5隻の掃海艇が新たに増派されて、掃海作業を続けた。
世界最強の米艦隊は3千個の機雷に行く手を阻まれ、日本の掃海部隊が掃海を完了するまで、じっと待っていなければならなかった。10月26日、掃海を終えて、ようやく米軍による元山上陸が実行に移された。
一度、日本の部隊によって掃海された海域は、やり直しの必要はなかった。国連軍の他の国による掃海は、そうはならなかったことから、日本掃海部隊の実力と貢献は高く評価された。
元山以外にも、仁川、群山など各地の港湾、航路の掃海が、日本の部隊によって行われた。冬の日本海の高波、強風、そして雪の舞う中を、掃海隊員たちは一日中、甲板で黙々と掃海作業に従事した。その姿と確実な掃海ぶりは、国連軍の信頼を集めた。
延べ46隻、1200名以上の隊員が参加した特別掃海隊は12月15日に任務を終えた。米極東海軍司令官ジョイ中将からは、米海軍の最大級の賛辞”Well Done”が贈られた。
翌昭和26(1951)年3月31日、米国から対日講和条約草案が示されたが、それは外務省が予想したよりも遙かに日本に有利なものであった。日本に掃海艇派遣を要請したバーク少将は大久保長官にこう語っている。
海上保安庁掃海部隊が朝鮮半島で国連軍を援助したことは、国際的にきわめて有意義であった。今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、私個人の考えでは、日本の平和条約締結の気運をぐっと早める効果をもたらしたと思う。
(文責:伊勢雅臣)
東日本大震災の影響で5大会ぶりの実施となった女子ゴルフの西陣レディースは17日、熊本空港CC(6473ヤード、パー72)で最終ラウンドを行い、首位タイから出た不動裕理が通算5アンダーの211で並んだ馬場ゆかり、イ・ジウ(韓国)とのプレーオフを制して今季初優勝し、賞金1260万円を獲得した。ツアー通算は49勝目。
不動はこの日72で耐え、プレーオフでは1ホール目の18番(パー5)でバーディーを奪って勝負を決めた。
1打差の4位は諸見里しのぶ、アン・ソンジュ、李知姫(ともに韓国)。有村智恵は73とスコアを伸ばせず、通算3アンダーで7位。横峯さくらは25位に終わった。
(産経ニュース2011.4.17)
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久し振りにきたね~、おばちゃん!
日本医療企画社長から創業30周年の記念品をいただいた。
吉祥 開運だるま(高岡銅器)の立派なものだ。
それにしても荒波を越えての舵取りに敬意を表したい。
今後ともよろしくお願いします。
18番、4日間を締めくくる一打は20メートル足らずを直接沈めるチップインバーディー。だが、石川自身はどこか冷ややかだった。「入ったところで(優勝には)届かなかったわけですし」。17番を終えて首位と5打差。前半に3連続ボギーでスコアを乱し、緊迫した優勝争いに持ち込めなかったことを残念がった。
1年間の最大目標にしているマスターズから帰国し、2日後に初日を迎えた。「心配していたのは体調の部分」。15時間ものフライト、練習ラウンドなしでの実戦はハンディには違いない。それでも3打差の3位に踏みとどまり、「何とか耐えてプレーできたのは収穫と思う」。マスターズから2週続けて予選落ちした昨年を思えば、着実に進化している。
石川は今季、獲得賞金の全額に加え、バーディー一つごとに10万円を東日本大震災の被災地に寄付する。4日間で計16バーディーを挙げた国内初戦の義援金は、3位の賞金884万円と合わせて1044万円。「被災者のためにも頑張っていきたい」。疲労困憊(こんぱい)の体を突き動かしたのは、19歳のそんな思いだったのかもしれない。
(産経ニュース2011.4.17)
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若いのに偉い!
きょうの藤岡の桜は五分咲きに・・・
今日はドライバーは4回のみ。
アイアンでフェアウェイキープを試みた。
しかしそのロングアイアンが右へ・・・
左に行くのをおそれずにしっかりとスイングしなければ・・・
1番(4-4):1W、4I、8I、1パット
2番(4-5):3I、5I、56°、2パット
3番(4-5):1W、8I、9I、2パット
4番(4-5):3I、3I、7I、2パット
5番(3-4):5I、パター、2パット
6番(5-8):3I、3I、3I(OB)、3I、パター、2パット
7番(4-6):3I(1P)、3I、パター、2パット
8番(3-3):6I、パター、1パット
9番(5-6):3I、3I、52°、56°、2パット
10番(5-7):3I、3I、3I、9I、8I、9I、1パット
11番(4-4):1W、4I、パター、1パット
12番(4-6):3I、3I、9I、7I、2パット
13番(3-4):4I、7I、2パット
14番(4-5):3I、3I、52°、9I、1パット
15番(3-5):4I、6I、、3パット
16番(4-5):5I、4I、56°、2パット
17番(5-7):3I(OB)、1W,52°、2パット
18番(4-5):1W、4I、56°、2パット
*藤岡GC西:out46(16)+in48(16)=94(32)
http://www.accordiagolf.com/guide/3570037/
前半○:後半×
○×最初のホール慎重に!
○○最後のホール慎重に!
××ドライバー:芯に当てる
--FW:芯に当てる
△△アイアン:ダウンブロー
○△アプローチ:転がしor52度
○○バンカー:1打で出す
△△パット:1パット以下5回、3パット以上1回
バーディー0、パー3、ボギー9、ダブルボギー5、トリプルボギー以上1。
平成21年12月期までの2年間に、役員を務めていた運送会社「刈谷配送」(愛知県知立市)の所得を隠し、法人税約6500万円を脱税したとして、法人税法違反罪に問われた名古屋国税局OBの税理士、高木成典被告(50)は14日、名古屋地裁(手崎政人裁判長)の初公判で「間違いありません」と起訴内容を認めた。同社社長、杉浦康史被告(45)ら2被告も同様に認めた。
冒頭陳述で検察側は「経営指導料名目の架空経費を計上し利益を圧縮するなどの脱税手法を高木被告が考え、他の被告に提案した」と指摘した。
高木被告は、別の会社の法人税約1700万円と刈谷配送創業者の所得税約3千万円の脱税を指南したとして、所得税法違反罪などでも追起訴された。
(産経ニュース2011.4.14)
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立派な国税OBの先生方も数多くいるのにとても残念ですね・・・
天皇、皇后両陛下は14日、東日本大震災で津波被害を受け13人が死亡した千葉県旭市を訪れ、避難所2カ所を見舞い、被災地を視察された。今回の震災で、両陛下が被災地に入られたのは初めて。
両陛下は、80人が避難する海上(うなかみ)公民館を訪問後、津波で大きな被害を受けた飯岡地区にバスで向かい、出迎えた住民らに「怖かったでしょう」「大丈夫ですか」などと声をかけて気遣われた。近くで津波の犠牲者が出たことを聞くと、自宅跡に向かい、並んで一礼された。
続けて、75人が避難する飯岡保健センターもお見舞いに。自力で逃げて助かった知的障害の男性(36)に、陛下は「えらいですね。がんばってくださいね」と言葉をかけられ、皇后さまも手を握って励まされた。
被害状況を説明した森田健作知事によると、両陛下は大きな津波の到達まで2時間半かかったことに強い関心を示された。陛下は「これから防災の勉強をしていかなければいけませんね」と話されたという。
この日は秋篠宮ご夫妻も新潟県の避難所を訪問された。関東以外の避難所を皇族方が見舞われたのは初めて。両陛下は来週、茨城県を訪問される見通しとなっている。
(産経ニュース2011.4.14)
歌手、桑田佳祐(55)ら大手芸能事務所、アミューズの所属タレント37組54人が歌う東日本大震災の復興支援チャリティーソング「Let’S try again」が完成し、14日、発表された。桑田が作詞作曲したフレーズを軸に、メドレー形式で紡がれる参加者の名曲を、各タレントが歌い継いだ9分1秒の超大作だ。20日から楽曲とプロモーションビデオ(PV)が配信限定で発売され、収益は全額被災地に寄付される。(サンケイスポーツ)
被災地救済のため立ち上がった「チーム・アミューズ!!」のスペシャルソングの全貌が明らかになった。
桑田が中心となって選曲、構成した楽曲は、福山雅治(42)の「桜坂」、ポルノグラフィティの「サウダージ」など彼らの代表曲がズラリ。桑田が手がけたテーマ曲を軸に、メドレー形式で紡がれる。
注目は普段なかなか見られない豪華コラボだ。サザンオールスターズの「私はピアノ」はPerfume、爆風スランプの「Runner」は俳優の三浦春馬(21)、佐藤健(22)、女優の仲里依紗(21)が歌で参加。
さらにPVでは、俳優の三宅裕司(59)、小倉久寛(56)、岸谷五朗(46)、寺脇康文(49)らが、AKB48を思わせるにぎやかなダンスを繰り広げる。
収録は、このほど東京・青山ビクタースタジオで行われた。メンバーは発表されたタレントに加え、女優の板谷由夏(35)、吉高由里子(22)、俳優の神木隆之介(17)が参加し、全37組54人に。
タレント全員が「被災地が元気を取り戻してくれれば」という思いで、それぞれのパートを熱唱。サザンの「希望の轍」で全員が集まり、最後に桑田が書き上げたサビを力強いメッセージを込めて大合唱。その映像は圧巻だ。
大団円の収録を終えた桑田は、参加アーティストたちへ「みなさんも心を痛めていると思いますが、これからも一緒に頑張っていきましょう」と呼びかけていた。
楽曲は、16日放送のTOKYO FM「桑田佳祐のやさしい夜遊び」(土曜後11・0)と、同日放送のニッポン放送「福山雅治のオールナイトニッポンサタデースペシャル 魂のラジオ」(土曜後11・30)で先行オンエアされる。(産経ニュース2011.4.15)
1.東京都と中央防災会議は、大地震が首都圏を襲ったときの帰宅困難者を650万人と試算しています。シミュレーションしてみると、自宅へたどり着くまで1週間以上かかる人が多数出るのです。そこで、平日の大半を過す会社で、個人でできる対策としては、机の下などに歩きやすい靴を1足用意します。また、帽子と手袋(軍手)も備えます。さらに、懐中電灯、携帯ラジオ、PETボトル入りの水と食料も用意します。
2.では会社として用意するべきものは何でしょう。まず全従業員が3日間滞在可能な量の水と食料が必要です。いつ帰れるかわからない人であふれ返るのですから、1週間程度暮らせるだけの備蓄があるとよいです。また医薬品も用意します。電池や軍手、毛布などの防災用品も備えておけば万全です。トイレの問題は、実は地震災害の隠れた大問題です。携帯トイレを常備すれば、会社での滞在や帰宅時に使えます。
(参考:「週刊東洋経済」:2010年12月4日号)
1.主要国首脳会議(サミット)を警護する警察官が使い、選挙があれば候補者が大量に購入するビニール傘がある。東京都台東区で雨具などの販売を手がけるホワイトローズが開発した「カテール」だ、この傘、一見するとただのビニール傘だが、ほかのと比べて透明度が高いうえ、強い風が吹いても、傘があおられたり、簡単には壊れない堅さを持つ。
2.現在、ビニール傘はコンビニエンスストアなどで1本数百円で販売しているが、カテールは4800円。この価格にもかかわらず、近年インターネット通販でも扱われ、年間1000本ほど売る定番商品に育った。安価な海外製品との競争は、モノ作り企業には避けられない。この競争を勝ち抜くには、製品・サービス、さらには事業モデルの高付加価値化を図り続ける姿勢が不可欠だ。(参考:「日経ビジネス」2010年12月13日号)
1.建機メーカーのコベルコ建機(神戸製鋼グループ、2010年9月中間決算では、売上高は前年同期に比べ700億円増収の1756億円、経常利益では180億円強増益の188億円)は、社員がため込んでいた不満や不安を減らし、生産現場の生産効率を2~4割上げることに成功した。
2.不満減らしは、具体的には5悪の撲滅を掲げて始められた。5悪とは、「手持ち」「歩く」「探す」「しゃがむ」「クレーンを使う」の5つだ。手持ちとは、する作業がなくて待っている状態を指す。休憩ではないため、完全なタイムロスになる。5悪の撲滅を徹底することで、不具合の発生率が低下した。同時に、負傷などの労働災害率も3分の1になった。こうした
改善が社員のモチベーションにいい影響を与えている。
(参考:「日経ビジネス」2010年12月6日号)
成功するためには、成功するまで続けることである――超プラス発想で人生最後の瞬間まで生き抜いた松下幸之助は日々自問自答を繰り返し、あるべき姿を思い描いてその実現に邁進する“実践する哲学者”でした。人をみな師と思い素直な心で人の意見を取り入れ、衆知を集めることを大切にし、“自分の頭”で考え“自分の言葉”でものを語る人間でした。本書ではそうした側面、いわゆる“経営の神様”といわれる以外の、フィロソファーとしての側面が際立つ人生・仕事・経営の著述内容を中心に計365+1項、拾い上げています。膨大な著述のエッセンスを凝縮した「松下幸之助入門書」といえるものです。一日を終えて日々の自省・自問自答をする際に役立つようにと、編集構成にも工夫が凝らされている。
今月の初ラウンド。
今日からいよいよスループレーだった。
ドライバーショットがどうもしっくり来ない。
後半はアイアンもブレて苦戦した。
また素振りをして修正しなければ・・・
1番(4-5):1W、4I、52°、2パット
2番(4-7):5W(1P)、3I、56°、56°、2パット
3番(4-4):1W、P、2パット
4番(4-5):3I、4I、7I、2パット
5番(3-3):4I、パター、1パット
6番(5-7):5W(OB)、3I、7I、2パット
7番(4-4):1W、3I、7I、1パット
8番(3-4):7I、3パット
9番(5-6):3I、3I、7I、56°、パター、1パット
10番(5-7):1W、3I、3I、6I、56°2パット
11番(4-5):1W、8I、9I、2パット
12番(4-5):1W、6I、3パット
13番(3-6):5I(OB)、パター、2パット
14番(4-5):3I、3I、9I、9I、1パット
15番(3-5):4I、56°、52°、2パット
16番(4-5):3I(OB)、P、1パット
17番(5-7):3I(OB)、1W,56°、2パット
18番(4-6):1W(OB)、9I、56°、1パット
*藤岡GC西:out45(16)+in51(16)=96(32)
http://www.accordiagolf.com/guide/3570037/
前半○:後半×
○×最初のホール慎重に!
○×最後のホール慎重に!
××ドライバー:芯に当てる
××FW:芯に当てる
○×アイアン:ダウンブロー
○△アプローチ:転がしor52度
○×バンカー:1打で出す
△△パット:1パット以下6回、3パット以上2回
バーディー0、パー3、ボギー8、ダブルボギー5、トリプルボギー以上2。
1.帝国データバンクの調査によると、日本には1000年以上続 く老舗は7社、500年以上が39社、300年以上が605社となっている。200年以上は韓国0、中国9社、インド3社に対して、日 本は3000社。世界に7000社あるといわれている200年企業のうち、実に半数近くが日本に集中していることになる。また、100年以上は世界の中でも断トツの100,000社以上にのぼる。
2.それにしても日本には、なぜこんなに老舗が多いのか?次 の三つに理由がある。一つ目は、過酷な内戦や侵略がなかったこと。二つ目は、継続を美徳とする価値観があること。例えば日本には、饅頭(まんじゅう)一筋何百年といった老舗が多数存在し、店の人もお客も、そのことを誇りにしている向きがある。「継続=美徳」という価値観は、アジアでは実は稀少なものなのである。
3.三つ目は、ものづくりを尊ぶ伝統があること。特に、自分の手を汚して何かをつくることをよしとする価値観が日本にはあるが、それ以外のアジアの国では、下賎(げせん)の民のする仕事とみなされている。日本ほど、職人文化やものづくりを大切にする国はないだろう。事実100,000社を超える日本の100年企業のうち、半数近くにあたる45,000社が製造業とされている。つまり我が国の老舗は、ものづくりによって生き永らえてきたのである。 (参考:「致知」2011年2月号)
皇太子ご夫妻は6日、東日本大震災で被災した福島からの被災者ら約130人が生活する東京都調布市の味の素スタジアムを訪問された。3月末の天皇、皇后両陛下に続く都内の避難所ご訪問で、病気療養中の皇太子妃雅子さまが、公的な活動で皇居外に外出されるのは昨年10月以来、約半年ぶり。約1時間の滞在予定を約45分間オーバーし、熱心に被災者の話に耳を傾け、励まし続けられた。
「何年生?」「何の教科が好きですか?」「外で遊ぶことはありますか?」。ご夫妻は子供たちにも優しく声をかけられた。友達と連絡が取れないという話をきいた雅子さまは「離ればなれなんですね…」と心配そうに話された。
「記念撮影してもよろしいですか。携帯電話しかないんですが」。そんな申し出にも、ご夫妻は快く応じられた。ご夫妻を囲むように家族が並んだ。
雅子さまは疲れた様子を見せず、皇太子さまとともに、ひざを床について被災者と会話を続けられた。被災者が雅子さまの体調を逆に気遣う場面もあり、雅子さまは「ありがとうございます」と返された。
涙を流しながらご夫妻と話していた、福島県富岡町の小林順子さん(39)は「話を聞いていただいてうれしかった。これまでこらえていたが、心がほぐれました。私たちの目線に立って話を聞いてくれる方たちでした」と話した。
家族4人でご夫妻を迎えた、同県浪江町の高松せい子さん(60)は「体調が優れないのに、雅子さまに来ていただいた。それがすごくうれしかった。だから私も『頑張ります』と言いました」。
宮内庁によると、ご夫妻は、被災者を見舞いたいという強いご意向を持たれていたという。お住まいの東宮御所では「被災者と困難を分かち合いたい」とする両陛下と同様に、自主的に電気の使用を控える取り組みをされているという。
両陛下は3月30日、避難所となっている東京都足立区の東京武道館を訪問されている。秋篠宮ご夫妻も、7日に東京ビッグサイトを訪問される予定。
(産経ニュース2011.4.6)
東日本大震災の被災地復興のために、桑田佳祐が、アミューズ所属の福山雅治、BEGIN、ポルノグラフィティ、Perfume、さらに活動休止中のサザンオールスターズのメンバーなど数々のアーティストとともに立ち上がった。「チーム・アミューズ!!」によるスペシャルソング「Let's try again」が発表されることが明らかになったのだ。
普段は多忙なスケジュールを抱えているアーティストたち。しかし今回、被災地、被災者、そして日本のためにと、それぞれのレコード会社の垣根も越えて、「チーム・アミューズ!!」と名づけられた本プロジェクトに集結する。50人を超すアーティストが一堂に会するのは同事務所としても初めてのことだ。
プロジェクトの中心的な役割を果たすのは、もちろん桑田佳祐。スペシャルソング「Let's try again」では、新たに桑田が詞曲を書き下ろしたテーマ部分を中心に据えながら、サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」、「希望の轍」、福山雅治「桜坂」、ポルノグラフィティ「サウダ―ジ」、BEGIN「涙そうそう」、Perfume「ポリリズム」などといった参加アーティストの代表曲のメドレーミックスが展開。そして最後には、参加アーティスト全員による「WE ARE THE WORLD」さながらの大合唱で大団円を迎える。それぞれアーティストたちがそれぞれの想いを胸に一致団結し、わずか1週間という期間で一気に仕上げられたという夢のオールスターソングだ。
「Let's try again」は、4月20日より主要配信サイトにて、着うた(R)、着うたフル(R)が配信。また、ビデオクリップも配信される。PCのほうは「mora」で楽曲とビデオクリップがともに配信となる。
なお、本楽曲から生じる収益のすべては、アミューズ募金を通じて日本赤十字社に寄付され、被災者救済のための救援活動及び復興支援活動等の資金として使われる。
◆ ◆ ◆
過日の東日本大震災によりお亡くなりになった方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被害を受けられた皆様とそのご家族に、心からお見舞いを申し上げます。また、現場に向かわれ、命がけで救援、支援活動をされている皆様もどうかご自愛ください。
この大震災に際し私なりに考えた結果、微力ではございますが、皆様の気持ちが明るくなっていただけるような音楽を作ることで、少しでも被災された方々のお役に立てればと思いました。そしてこの度、同じ思いをもつ、私の所属事務所でありますアミューズの仲間たちが数多く参加してくれたことで、とても力強い音楽を完成させることができました。被災地の皆様のもとに私どもの気持ちをお届けするとともに、厳しい状況の中ですが、音楽が少しでも気晴らしになり、皆様の元気のもとになればと思っております。寒く厳しい冬のあとには必ず暖かい春がやってくる、そう信じて、まだまだ困難な生活を強いられている皆様のご無事と一日も早い復興が実現することを心よりお祈り申し上げます。
桑田佳祐
◆ ◆ ◆
【「Let's try again」概要】
配信開始日:2011年4月20日
モバイル配信サイト:アミュモバ☆DX、レコチョク、music.jp、mu-mo、dwango.jp、オリコンスタイルフル、アーティスト公式サウンドフル、MUSICO、JOYSOUND[フル×歌詞]、MySoundフル、DAM★フル、着信★うたフル♪、GIGAッchうたフル、うたJETS!!フル、ベストヒットJ-POPフル
PC配信サイト:mora
「チーム・アミューズ!!」参加メンバー:
上野樹里、岡田義徳、小倉久寛、加藤貴子、岸谷五朗、桑田佳祐(サザンオールスターズ)、小出恵介、小松彩夏、佐藤健、サンプラザ中野くん、Skoop on somebody、須藤理彩、関口和之(サザンオールスターズ)、高橋優、寺脇康文、富田靖子、仲里依紗、野沢秀行(サザンオールスターズ)、原由子(サザンオールスターズ)、パッパラー河合、Perfume、BEGIN、平岡祐太、福山雅治、FLOW、ポルノグラフィティ、MIHIRO~マイロ~、松田弘(サザンオールスターズ)、三浦春馬、三宅裕司、村川絵梨、MONOBRIGHT、森雪之丞、ONE OK ROCK、他 (五十音順)
(BARKS2011.4.7)
1.製造業の空洞化には依然として歯止めがかかっていないようだ。経済産業省が9月末に発表した2009年の工業統計速報によると、製造業の事業所数(従業員10人以上)は12万6501事業所。前年比7.1%減少と3年連続で減少したことがわかった。
2.産業別に見ると、24産業のうち、事業所数が増加したのは石油・石炭製品だけで、残りの23業種で事業所数が減少。食料品、金属製品、生産用機械、プラスチック製品、繊維の減少数が目立ち、この5産業だけで全体の減少数の5割弱を占める。比較可能なデータがある1950年以降、最大の減少率となっており、リーマンショック後の不況が日本製造業に大きな影響を及ぼしたことがうかがえる。
(参考:「週刊東洋経済」2010年10月21日号)
■1.「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」
3月28日付け産経新聞は、一面トップに「黙して任務全う自衛隊員 『国民守る最後の砦』胸に」との見出しで、黙々と被災地救援の任務につく自衛隊員たちの活動ぶりを詳細に伝えている。
「我が身顧みず被災者第一」との小見出しでは、「自宅が全壊、家族も行方不明という隊員が普通に働いている。かけてあげる言葉もない」
東京電力福島第一原子力発電所で、被曝(ひばく)の恐怖に臆することなく、17日からの放水活動の口火を切ったのも、自衛隊だった。
ある隊員からは、こんなメールが届いたという。「自衛隊にしかできないなら、危険を冒してでも黙々とやる」「国民を守る最後の砦。それが、われわれの思いだ」
「国民を守る最後の砦」として「危険を冒してでも黙々とやる」とは、まさに武人の覚悟である。そして、その精神は終戦後まもなく、自衛隊の萌芽期から発揮されてきた。
桜林美佐さんが『海をひらく 知られざる掃海部隊』で見事に描いた掃海部隊員たちの姿がそれである。終戦後、機雷に閉ざされた日本の港を開くべく命をかけて掃海作業にあたってきた部隊員たちの活動をたどって、被災地で頑張る自衛隊員の皆さんへの応援としたい。
■2.「対日飢餓作戦」
先の大戦末期、米軍は「対日飢餓作戦」を実施した。これは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内海、さらには新潟など日本海側の主要港に約1万2千個の機雷を敷設し、海上輸送ルートを根絶して、日本の息の根を止めようという作戦だった。
終戦までに、これらの機雷により日本が失った艦船は357隻。たとえば神戸港ではそれまでに毎月114隻が入港していたのが、機雷敷設後は31隻に減少し、満洲などからの物資・食糧補給が大幅に阻害された。
米軍の戦史は「対日飢餓作戦」の成果を次のように語っている。
機雷敷設により日本周辺の海上交通は完全に麻痺し、原材料や食糧の輸入は根絶して、日本を敗戦に追い込んだが、もし終戦にならず、あと一年この作戦が続いたら、機雷のために日本本土の人口7千万の1割にあたる7百万人が餓死したに違いない。
海軍の掃海部隊が機雷の除去に務めていたが、終戦を迎えた時点でも、ほとんどの機雷が全国の主要港を封鎖していた。
終戦からわずか9日後の昭和20(1945)年8月24日、大湊から朝鮮へ帰国する朝鮮人を乗せた「浮島丸」(4730トン)が舞鶴沖で触雷沈没し549名が死亡。10月7日には、関西汽船の「室戸丸(1253トン)が大阪から別府に向かう途中に神戸の魚崎沖で触雷し、336名が死亡、というように被害が続いていた。
日本復興のためには、まずはすべての機雷を除去し、港湾と海路を安全にしなければならなかった。
■3.「我々掃海隊員に課せられた責務」
終戦直後に、占領軍は帝国陸海軍を解体させたが、機雷除去は海軍の掃海部隊しかできないため、この部隊だけはそのまま残し、すべての機雷の速やかな除去を命じた。
戦時中から機雷除去にあたっていた掃海部隊はそのまま危険な除去作業を続けることになった。ただ、終戦後はB29爆撃機が新たな機雷を落とさなくなった、というだけの違いであった。
徳山での掃海作業の指揮官は、終戦時に次のような訓示をしている。
諸子はこれまで危険な機雷の掃海作業に日夜辛酸をなめたのであるが、終戦を迎えた今日この時から、さらに本格的な掃海隊員としての仕事が始まることを覚悟しなければならない。それが我々掃海隊員に課せられた責務であり、国家同胞に報いる所以である。
こうして戦後の掃海作業が始まった。装備は、海防艦約20隻、徴用漁船その他約300隻余、そして人員は1万名余りであった。
■4.機雷除去作業
一口に機雷といっても、様々な種類がある。形態として海底に沈んだ重しからワイヤーで結ばれて海中に浮かんでいる「係維機雷」と、海底に沈んでいる「沈底式機雷」がある。
「係緯機雷」は、2隻の掃海艇が平行して走りながら、掃海索(ワイヤー)を曳航して、それによって機雷と重しとの間のワイヤーを切断し、浮き上がった機雷を銃撃して爆発させる。
このタイプは、帝国海軍が防衛のために自ら敷設したものが主で、敷設した場所も分かっているだろうし、処理も単純なので、約1年で除去完了となっている。厄介なのは、主に米軍がばらまいた「沈底式」である。
沈底式には、艦船の発する磁気に感応するタイプが3種類、音響に感応するタイプ2種類、加えて磁気と水圧の変化の複合型と7種類もあった。
磁気に感応するタイプに対しては、自身では磁気を発生させない木造の掃海艇2隻が掃海電線を曳航し、それに電流を流して磁気を発生させて爆発させる。
さらに、感応9回目ではじめて爆発するような設定になっていたりする。すると、1000メートルの航路を掃海するためには、100メートルずつの幅に分け、各幅を9回、合計90回の曳航を繰り返す。
しかもレーダーがない当時は、2分ごとに自分の目で3角測量という方法で測定するしかない。測量を間違えれば、掃海していない空白部分ができ、そこに機雷があれば、大事故につながるのである。
■5.名誉の戦死者でも、戦没者でもなく
掃海艇自身が機雷で被害を受けることもしばしばであった。終戦時から昭和24(1949)年5月までの約4年間で、掃海艇30隻、死者70余名、重軽傷者2百名の被害が出ている。
昭和24(1949)年5月23日、関門海峡東口で起きた掃海艇MS27号の触雷沈没事故もその一つである。同じ現場にいた僚船の艇長であった浜野坂次郎氏は、手記にこう書いている。
午後1時45分頃、MS27号の船底から水柱が沸き上がった。水柱が落ちると、すでにMS27号の煙突から後方が水面下に沈んでいた。
浜野艇長のMS22号がすぐにMS27号に近づいて生存者救助に務めた。負傷者3名を救助したが、どうしてもあと4名が見つからない。その後1週間をかけて、沈んだ船内に潜水夫を入れて、4名の遺体を収容した。
殉職した西崎三郎・操機長は新婚ホヤホヤ、残りの3名も20代の独身だった。彼らの葬儀は表向きにできなかった。というのも、そもそも1907(明治40)年にオランダのハーグで締結された条約では、商業上の航海を阻むような機雷敷設は禁止されており、連合軍の行為はまさに国際法違反そのものであったからだ。
おりしも開かれていた東京裁判では、日本の国際法違反が厳しく問われていたが、占領軍総司令部は自らの国際法違反は厳重に秘匿していた。
したがって、掃海部隊員は殉職しても、名誉の戦死者でも、戦没者でもなかった。しかし、それでも彼らは危険を承知で、黙々と掃海に取り組んだのである。
■6.「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」
しかし、彼らの活動が報われた瞬間があった。昭和25(1950)年3月、戦後、全国の国民を励ますために巡幸を続けられていた昭和天皇が、四国巡幸の途上で小豆島土庄(とのしょう)に立ち寄られることになった。
しかし、この海域はまだ掃海が済んでいなかった。ただちに掃海艇6隻、木造曳船6隻、掃海母船「ゆうちどり」が急派された。作業は3月7日に開始され、巡幸2日前の13日に完了すべく、寒風吹きすさぶ中で不眠不休の掃海作業が続けられた。安全を確認するために、最後は「ゆうちどり」が、御召船の航路を試航した。
15日、行幸の日、御召船が小豆島に向かった時には、24隻の掃海隊がやや離れた播磨灘の掃海を実施していた。隊員たちは、御召船の安全航行を願って、遙拝した。
お召し船の同乗した元掃海部長の池端鉄郎氏は、次のように手記に記している。
高松出港後、陛下は左舷甲板にお出ましになり、私はご前に進み、左舷北方遙かに小豆島北航路掃海中の姫野掃海隊指揮官が率いる24隻8編隊による整然たる磁気掃海の状況を望見しながらご説明申し上げ、・・・隊員一同危険を顧みず懸命の努力をいたしていることを申し上げたところ、陛下におかせられてはそのつど頷かれ、次のようなご質問があった。
「話を聴くと危険な作業のように思うが、殉職者は何人か」
「76人でございます」と申し上げると、続いて「今、殉職者の遺族はどうしているか」とお尋ねになり、私は「それぞれの郷里において暮らしておることと存じます」と申し上げると、「どうか遺族が困ることのないようにして欲しい」と仰せられ、私はご温情に感激してご前を下がり急ぎ船橋に向かった。
■7.荒れ海の登舷礼
昭和天皇は、その後、高松、高知、徳島、鳴門を巡幸され、3月31日に徳島市の南の小松島港から、淡路島の洲本に向かわれた。寒さが続いたため、感冒にかかられて、1日だけ休養をとられた後だった。しかし、この日は大時化(しけ)であった。
海上では、関門、瀬戸内海の掃海作業にあたっていた掃海部隊32隻が、二列縦陣を作り、荒天の中、登舷礼(とうげんれい、乗員が艦上に整列して出迎える)で御召船をお迎えしていた。
海上保安庁長官・大久保武雄はこう記している。
私は天皇に、「掃海船隊が編隊航行をしつつ登舷礼を行っておりますが、非常な時化でありますから、天皇はおとどまりいただき、登舷礼に対しては私どもがこれにこたえるようにいたします」と申し上げて、私は甲板に立っていたところが、私の上着の裾をうしろから引っ張る者がある。
ふり返ると天皇が、揺れる船の甲板の、しかも吹き降りの雨風に揺れながら立って、掃海隊の登舷礼に答えておられた。私は、びっくりして天皇陛下のうしろにさがって侍立した次第であった。
巡幸の間、天皇のお側から離れなかったカメラマンたちも、この時化には参ってしまい、下の船室にもぐり込んでいたのだった。
荒れる海で小さな掃海艇32隻は見事に一定の距離を保ち、その揺れる船上で隊員たちは直立不動の姿勢を保ち続けた。遠目にも御召船上の陛下のお姿が見えたであろう。登舷礼に加わっていた掃海部隊の一人は、こう記している。
・・・乗員一同精一杯の準備をすすめていた。とにかく隊員は、大感激の一日であった。旧海軍時代はともかくとして、天覧艦船式とか天覧海自演習などの行事は一度も行われていない。これらのことから考えてみても、画期的な行事であった。
国のため、国民のために、危険を顧みずに掃海作業を続ける隊員たちが報われた一瞬であった。
■8.「掃海殉職者顕彰碑」
昭和27(1952)年、日本沿岸の全ての主要航路と100余ケ所の港湾に対して「安全宣言」が発せられた。これにより、各港が一般船舶に開放され、港湾都市からは歓呼の声があがった。この「安全宣言」による経済効果は絶大で、復興を大きく後押しすることになった。
なお、日本側で掃海した海面からは、一度も触雷事故が起こっていないという。掃海部隊員がいかに緻密に、辛抱強く、自らの責務を果たしたかの証左である。
同年6月、79名の殉職隊員を顕彰するため、32の港湾都市の市長らが発起人となって、海上交通の守り神として信仰されている香川県金刀比羅宮に「掃海殉職者顕彰碑」が建立され、以後、毎年追悼式が行われている。
世のため人のために、危険を顧みずに挺身する人々の活動を、天皇が励まされ、そして不幸にして殉職した人々に対しては、末永く顕彰するのが、我が国の伝統なのである。
(文責:伊勢雅臣)
ソフトバンクの孫正義社長は3日、東日本大震災での被災者支援のため、個人資産から100億円を寄付すると発表した。また、平成23年度から引退までの孫社長の報酬全額も、震災で両親を亡くした孤児の支援として寄付する。
寄付金は日本赤十字社のほか、ボランティア団体などへの支援や震災孤児の勉学支援などに充てる。
孫社長は3月22日に福島県の避難所を訪れ、被災者者数万人への携帯電話の無償貸与に加え、震災孤児を対象に、18歳までの通信料を完全無料化といった支援も表明していた。
孫社長の平成21年度の報酬は1億800万円。米経済誌フォーブスの今年の長者番付によると、孫氏の個人資産額は約6800億円。
ソフトバンクも企業として10億円を寄付したほか、ヤフーも3億円の支援金を決めている。(産経ニュース2011.4.3)
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すごい!
1.経済のあり方には大きくわけて「資源立国」「金融立国」「ものづくり立国」の三つがあります。資源のない日本がオーストラリアやブラジルのような資源立国を目指せないのは、当然のことです。また、金融に関しても、欧米のような長い年月をかけて蓄積されたノウハウがあるかといえば、疑問でしょう。とすると、残るのは「ものづくり」しかありません。
2.そもそも日本は、20数兆円の原油、原料、食糧などを海外からの輸入に頼っています。どうしてもこの分の外貨を稼がなければなりません。それを支えてきたのが、自動車、電機 ・家電、産業用機械、鉄鋼などのものづくり産業です。そうして得た外貨で、食糧とエネルギー資源を購入し国民生活を支え、今度はその資源を加工して輸出する。その日本経済の構造は、今後も不変だと思います。
3.民主党政権が出した「新成長戦略」では、環境型ビジネスやマンガ・アニメといったコンテンツビジネス、観光、鉄道や原子力発電所などのインフラ輸出などが新たな成長の柱にあげられています。しかし、10年以内にそうした新たな分野が自動車や鉄鋼といった既存の産業にとってかわり、雇用を生み出し、外貨を稼げるような産業に成長するとはとうてい思えません。やはりものづくり産業を維持発展させていくしかないのではないでしょうか。(参考:「文藝春秋」2011年2月特別号)
1.「社員重視の経営」「顧客第一主義」「品質重視」という経営理念を掲げる企業は多いが、新興市場のウェートが高まっていく中で、経営理念をグローバルな規模で具現化し続けるのは簡単ではない。たとえば品質重視とは何か。これまでは、妥協することなく、世界最高品質のものをつくればよかった。要求水準が高い顧客の要望に合致した、「先進国最適モデル」ともいうべきものだ。
2.しかし、よくいわれるように、最高品質ではなくてもコストダウンをしたようなものが新興国では爆発的に売れる。ここを狙ったのが韓国のサムスン電子やLG電子などだが、こ
こに日本企業は入り切れていない。ようやくここに来て自動車メーカー、家電メーカーの一部で「新興国モデル」へ本腰を入れ始めた。
3.コストダウンし販売価格を低く抑えた製品を、「品質重視」の解決の一つとして加えることができるのかどうか。これは経営理念の現実的意味合いを再定義しなければ、なかなか踏み出せないだろう。新しい経済環境に合わせて会社の経営理念を再定義した後には、その新しい定義に合わせ、製品開発やサービスを行う必要がある。
(参考:「週刊東洋経済」2010年11月20日号)
今月2回目のラウンドだった。
ドライバーショットの引っかけが直らず、苦戦。
5W、3Iで後半はなんとかまとめられた。
しかし、脱却しなければ次には進めない。
きょうも浅間山はとてもきれいでしたよ。
1番(4-8):1W、3I、9I、9I、8I、3パット
2番(4-5):5W、7I、パター、2パット
3番(4-5):1W(1P)、52°、2パット
4番(4-5):3I、3I、52°、2パット
5番(3-5):4I、56°、56°、2パット
6番(5-7):1W(1P)、4I、3I、パター、2パット
7番(4-5):1W、3I、52°、2パット
8番(3-3):7I、2パット
9番(5-8):3I、6I、4I、56°、56°、56°、2パット
10番(5-5):1W(1P)、3I、2パット
11番(4-6):1W、7I、8I、52°、2パット
12番(4-3):1W、4I、パター、0パット
13番(3-5):4I(OB)、パター、1パット
14番(4-6):3I、3I、56°、52°、2パット
15番(3-4):4I、56°、パター、1パット
16番(4-5):3I、6I、3パット
17番(5-5):3I、3I,7I、2パット
18番(4-6):1W、8I、56°、56°、2パット
*藤岡GC西:out51(18)+in45(14)=96(32)
http://www.accordiagolf.com/guide/3570037/
前半×:後半○
×○最初のホール慎重に!
○×最後のホール慎重に!
××ドライバー:芯に当てる
--FW:芯に当てる
△○アイアン:ダウンブロー
××アプローチ:転がしor52度
○
○△バンカー:1打で出す
△○パット:1パット以下5回、3パット以上2回
バーディー1、パー3、ボギー6、ダブルボギー6、トリプルボギー以上2。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の
いわおとなりて こけのむすまで
http://www.youtube.com/watch?v=1KCHFGhU3qE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5pSftXkT2jc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=CySr03YZStw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=81Ws5k3ymik&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SOTyJieeQ24&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=bxVpirfII7I&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=MpJ0ZcsXKlw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=pyB6lYPaEJ8&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=OAL-Q7Xc9w0&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=vs34WNPy_W8&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=Ya9iPEa9ucc&feature=related
天皇、皇后両陛下は東日本大震災の被災者が避難している東京都内の施設を訪ね、被災者を見舞われた。
両陛下は両ひざをついて、一人一人に「少し休めましたか」「ご家族は大丈夫ですか」「ミルクやおむつは」などと声をかけられた。事態が落ち着けば、「一日でも早く被災地を訪れたい」意向を示されているという。
両陛下はこれまでも、雲仙普賢岳噴火(平成3年)、北海道南西沖地震(5年)、阪神淡路大震災(7年)、新潟県中越地震(16年)と大災害のたびに被災地へ赴き、同じような姿勢で人々を励まされてきた。
今回のお見舞いにも、国民と辛苦をともにし、国民とともに歩もうとされる両陛下のお気持ちがひしひしと伝わってくる。
天皇陛下は大震災発生から6日目の3月16日、ビデオを通じて約5分半のお言葉を述べられた。
「一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています」と案じ、福島第1原子力発電所の事故も「事態の更なる悪化が回避されること」を切に願われた。
さらに、救援活動にあたる人々の労をねぎらうとともに、「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」とメッセージを送られた。
陛下が被災者と国民に向け、直接、お気持ちを述べられたのは初めてである。
現在、両陛下はお住まいの皇居・御所で、「国民と困難を分かち合いたい」として、1日数時間にわたり明かりや暖房など電気を一切使わない「自主停電」を毎日、続けられている。また、宮内庁の御料牧場(栃木)で生産された卵や野菜を避難所に届け、那須御用邸(同)の職員用の風呂も避難者のために開放された。
国民も、さまざまな形で被災者と苦難を分かち合っている。
昭和天皇は終戦の日の昭和20年8月15日、ラジオを通じて終戦詔書を発表し、「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ…」と国民を励まされた。今回の大震災は、そのとき以来の国難といえる。
戦後日本は廃虚の中から見事な復興を遂げた。今回の大震災に対しても、国民が一丸となって復興支援活動に全力で取り組み、日本を見事に立ち直らせたい。
(産経ニュース2011.4.1)
天皇、皇后両陛下は30日、東日本大震災の被災者約290人が避難している東京都足立区の東京武道館を訪問された。両陛下が被災者を直接見舞われたのは初めて。
両陛下は「お大事にね」「少し休めましたか?」などと、すべてのグループに声をかけられた=写真(いずれも代表撮影)。福島県浪江町から避難してきた養護学校講師、浮渡(うきと)健次さん(34)は「本当に心配してくださっている気持ちが伝わってきた」と話した。都関係者らからの説明を省略し、予定時間を上回る約50分を被災者のお見舞いに費やされた。
両陛下は災害状況に心を痛め、16日にはビデオを通じ、国民に向けてお言葉を述べられた。お住まいの皇居・御所では、「国民と困難を分かち合いたい」として、数時間にわたり、明かりや暖房など電気を一切使わない「自主停電」を15日に開始された。側近によると、以降、毎日続けられている。
福島県から避難している被災者が9割以上を占める東京武道館(東京都足立区)。ジャンパー姿の天皇陛下は30日、皇后さまとともに、家族らが暮らす区画を1つずつ回られた。
目線を落とし、ひざまずきながら熱心に話を聞かれた陛下は、「本当にご心配でしょう」「ご家族は大丈夫ですか」などと被災者を案じ、複数の避難所を転々とした話を聞くと、「大変ですね」と同情された。
皇后さまは乳幼児を抱える母親に「ミルクやおむつはあるの?」「屋外で遊ぶところはあるんですか?」とご質問。子供の前でお手玉をされる場面もあり、周囲に笑いが広がった。
多くの避難者は、両陛下と話していないときも、正座を崩さず両陛下を目で追った。涙を浮かべる姿もあった。
即位後、陛下は大規模な自然災害が起きるたび、皇后さまとともに可能な限り速やかに現地を訪問されてきた。平成7年の阪神大震災では、震災後約2週間で兵庫県に入られている。
今回の災害からもすでに20日目を迎えたが、現地に入るには警備面の負担などを考えると時期が早いとして、まずは都内の避難所を訪問された。
両陛下はほかにも「現段階でできること」を考え、実行されている。お言葉を述べた映像の公表や、御所での「自主停電」。宮内庁の御料牧場(栃木)の生産品の卵、野菜を避難所に届けたり、那須御用邸(同)の職員用の風呂が避難者に開放されたりした前例のない取り組みも、両陛下のご発案だった。
両陛下が心を砕かれる一方で、皇室に関する根拠のない話がネットを通じて出回っている。陛下や皇族方が、余震や放射線の影響を避けるため「京都に移動された」などとする内容だ。
震災以降、各種行事の出席を中止し、公の場に出る機会が少なくなったことが背景にあるようだ。陛下のお言葉のビデオが発表された16日以降は「映像は海外で撮影された」という根拠のない話も登場した。
真偽を会見で問われた宮内庁幹部はこう答えた。「答えるには及ばない。陛下がどこにいらっしゃるかは、みなさんが一番ご存じのはずです」
両陛下は災害直後から、「一日でも早く被災地を訪れたい」と、一貫して強く願われているという。(産経ニュース2011.3.31)
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日本国日本人として生まれて良かった。
1.日本は地理的に海に囲まれており、世界6位の排他的経済水域(EEZ)を有している。この日本の地理的な優位性を活用した「新たな海洋開発」が注目を集めている。従来の海洋開発は、海岸防護施設、港湾施設、埋め立て・人工島などが主体だった。しかし、最近は①新たなエネルギー、②鉱物資源、③再生可能エネルギー、④バイオマス燃料、の宝庫として海洋が見直されている。
2.新たなエネルギーとしては、メタンハイドレートが注目されている。鉱物資源としては、海底熱水鉱床に期待が集まっている。再生可能なエネルギーとしては、洋上での風力発電、波力発電や潮力発電、海洋温度差発電が挙げられる。バイオ燃料に関しても、海洋を活用する技術が開発されている。
(参考:「野村週報」2010年11月15日号)
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