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2011年4月21日 (木)

機雷除去に命をかけた男たち(下)朝鮮戦争を戦う米軍から、日本の掃海部隊に支援要請がなされた。

■1.「北朝鮮海域に海保の掃海隊を出してほしい」

 海上保安庁の初代長官・大久保武雄が日本橋兜町にあった極東海軍司令部に呼び出されたのは、昭和25(1950)年10月2日のことだった。参謀副長アーレイ・バーク少将は大久保にこう言った。

「元山上陸作戦のために、北朝鮮が敷設した元山港の機雷を除去したい。海保の掃海隊を出してほしい」

 大久保は絶句した。海上保安庁の掃海部隊は、国内の港湾、航路の掃海に大きな成果をあげていたが、朝鮮戦争が行われている海域での掃海は戦争行為そのものであり、米国が押しつけたばかりの新憲法に抵触する。

 この時、朝鮮戦争は大きな山場に差し掛かっていた。4月に北朝鮮軍が大規模な奇襲攻撃を仕掛けて、国連軍は朝鮮半島南端に追い詰められたが、総司令官マッカーサーの仁川上陸作戦により北朝鮮軍を挟み撃ちにして、戦局を挽回した。

 マッカーサーはさらに日本海側の元山に上陸し、朝鮮半島の最も細いくびれた地帯を東西から分断し、北朝鮮軍を袋のネズミとして殲滅しようという作戦に出た。しかし北朝鮮は沿岸にソ連製機雷を大量に敷設しており、それらの除去が不可欠だった。

 しかし国連軍で掃海作業にあたっていたのは、わずか数隻の、それも経験に乏しい掃海艇のみで、上陸作戦を行うにはどうしても熟達した日本の掃海部隊の助けを借りるしかなかったのである。

■2.「極秘でやってくれ」

 新憲法を盾に「掃海部隊派遣は困難」と回答した大久保長官に対して、バーク少将は「掃海艇がなければ国連軍が敗北するかもしれない。それは日本に不幸な結果をもたらす」と脅した。

 大久保長官は事の重大さに、とても一人で決められる問題ではないと、ただちに吉田首相を訪ねて、指示を仰いだ。おりしも、講和条約の締結に向けた交渉が進んでいた時期であり、独立を待望していた我が国にとって、掃海艇派遣拒否はどう考えても得策ではなかった。

「それは困ったな。米国と講和条約の交渉に入ったばかりだから、(掃海を断って講和の)チャンスを逃すわけにはいかない。しかし、やれば国内的に問題になる…極秘でやってくれ」と吉田は答えた。

 その日の真夜中、「直ちに出港準備をなせ!」との命令が各地の掃海隊に下された。1時間ほどすると、各艇から次々に「出港準備完了!」の連絡が返ってきた。有事即応の海軍精神が生きていた。掃海隊は任務地は教えられないまま、下関港での集結を命じられた。

■3.「大義」は?

 神戸、舞鶴、大湊、呉、門司などから次々に掃海艇20隻、母船1隻、巡視船4隻が下関港に集結した。全船艇の指揮官、艇長が集められ、航路啓開本部長の田村久三が任務を語った。米軍からの命令で、朝鮮水域での掃海にあたって貰う、という内容だった。

 重苦しい沈黙が続いた。今まで国内での掃海に取り組んできたが、それには「国家再建のため」という大義があった。つらい危険な作業だったが、それは戦後の窮乏に苦しむ国民を救うために、誰かがしなければならない仕事だった。

 海軍軍人として一度は捨てた命を、もう一度、国家、国民のために捧げることは厭わない。しかし、今回は「祖国のため」とか「愛する人のため」ではなく、ただ「占領軍の命令」なのだ。

 重い空気を破って質問が出た。「行き先は? 大義名分は? 命令権者は誰か? 米軍の指揮下に入った場合の我々の身分は? 万一のことが起きた時の補償や手当は?」

 それから3時間も堂々巡りの議論が続き、「北緯38度線以南の戦闘の行われていない港湾の掃海とする」などの事項が、この場で定められた。しかし、掃海部隊の内々の決め事を米軍が守ってくれるという保障などどこにもなかった。

■4.「今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」

 各艇長を通じて、乗員全員に任務の説明がなされ、「下船したい者があれば申し出るように」と伝えられたが、2名を除いて、全員が了解した。

 朝鮮へ出動すると知った家族は各地から下関に駆けつけた。岸壁に横付けされている船から夫を捜し出して、「朝鮮には行かないで頂戴! 掃海隊を辞めてうちに帰ってください!」と涙ながらに訴える妻がいた。また夫の胸にすがりついて「日本の戦争は終わったのに、今さら外国の戦争に参加するなんて、、、」と必死に引き止める妻。隊員たちも必死に家族を説得したに違いない。

 10月7日、第一掃海隊5隻、116名が下関を出港。翌朝には総指揮艦艇「ゆうちどり」を先頭とした第2掃海隊7隻が続いた。

 米軍の命令で、船名も消され、日の丸を掲げることも許されなかった。夜になっても、灯火はいっさいつけず、暗夜の無灯航行を続けた。

 途中で、米海軍の駆逐艦数隻が現れ、掃海部隊の左右両側を護衛するように航行した。目的地は「元山」、「隊内においても、日本に向けても無線は封止」「本艦に続行せよ」との指令が下された。

 第2掃海隊指揮官の能勢省吾は、こう記している。

 10月10日、夜が明けてみるとついに元山沖付近まで来ていたのである。遙か沖合の方に米第7艦隊らしい戦艦、航空母艦等がずらりとならんでいるのが沖合い遠くに見える。我々の行く処は朝鮮東岸の元山沖であったのかと、はじめて皆はびっくりしたのであった。・・・

 これこそ第7艦隊の主力ではないか。元山でこんな大部隊を動かすような大作戦が計画されていたのかと思って私は驚いた。
 湾口近くにいる駆逐艦数隻は、陸上への砲撃を行っていて、戦場に来たのだということを、誰しもが感じた。

■5.米掃海艇2隻沈没

 米艦から燃料、水、食糧の補給を受け、12日、早朝から掃海作業を始めた。能勢は米軍の4隻の掃海艇を見て目を疑った。全て鋼の船体で、これでは磁気機雷にかかればひとたまりもない。実はそれ以外の掃海艇はすべて米本土に帰されていたのだ。

 しかし、その米掃海艇は恐れを知らないかのように、先頭に立って、湾口をめざす。

 先頭艦が湾口にさしかかった時である。「ドーン!」という大音響とともに、先頭艦AM275が水煙に覆われた。「やられた! 触雷だ!」艦橋に居合わせたもの皆一様に、声もなく、見つめた。
 水柱は10~15秒で消え、同艇は船首を下に、急速に沈下しつつあった。3分ほどで、最後のマストまで見えなくなった。

 その時、「ズドーン!」とけたたましい音が耳をつんざいた。湾口南側の島から敵の攻撃が始まったのである。米2番艇は、沈没した1番艇の乗員を救助しながら、艦載砲で反撃する。

 しかし、その2番艇も触雷し、「ドーン!」という大音響とともに水柱と煙につつまれ、見る間に横倒しになって、一瞬のうちに沈んでしまった。

 3番艇、4番艇も砲撃しつつ、救助作業を行う。日本の掃海艇はただ見守ることしかできなかった。しばらくすると「掃海を中止し、泊地に撤退せよ」との命令が下された。結局、この日、2隻の掃海艇が失われ、戦死者13名、負傷者92名の被害が出た。

■6.行方不明1名

 その後、沖合から湾口の島々に、米戦艦、巡洋艦、駆逐艦から、まる一晩、艦砲射撃が行われた。これだけ撃ち込まれたら、北朝鮮の砲撃部隊も壊滅しているだろうと思われた。その後、掃海作業が連日、続けられた。

 17日午後3時半、「ドーン!」と足元から突き上げるような大音響が起こった。煙が消えると、日本の掃海艇の一隻が、すでにマストと艦橋部分を残して水没しているのが見えた。能勢は「掃海中止、掃海索を揚げ救助せよ!」と各艇に指示した。

 しかし、各艇は掃海索の揚収にもたついている。また周辺は機雷の海で、下手に動けば同じように触雷するかもしれない。歯噛みをしていると、米艦が救助に全力で急行するのが見えた。日本艇の沈没を見て、自らの危険を顧みずに救助に向かうその姿は、日本の掃海部隊員の心を打った。

 30分ほどして、米艦から24名を救出、うち重傷3名、軽傷5名との連絡を受けた。1名、中谷坂太郎が行方不明のままであった。

 油に覆われた海面から助け出された隊員たちは、入浴が許され、新しい衣服が支給された。北朝鮮の海は10月にはもう冷たく、米艦上でも震えが止まらなかったが、暖かい飲み物を配られて、少し落ち着いた。米兵の真心のこもった親切さが身にしみた。

 救助された隊員たちは、翌々日には佐世保に送られ、負傷者は病院へ、元気な者は旅館に収容された。久しぶりの畳の上の生活だったが、皆もう一度、元山に戻って、残してきた仲間を助けたいと思った。

 なかでも、石井艇長は「俺は中谷の遺体を見ていない、まだ生きて、助けを待っているかもしれないじゃないか」と、どうしも戻ると言って聞かず、結局、その後、再び、元山に赴いている。

■7.国事に殉じた一青年

 行方不明となった中谷坂太郎は厨房員だった。触雷沈没した17日は、掃海作業が一段落し、元山に上陸できそうなので、「ごちそうを作らないとな」と、張り切っていたという。そして、触雷の直前に、後部の船倉に降りていく姿があった。船倉にいたとしたら、触雷爆発ではひとたまりもない。

 事故から一週間後、坂太郎の両親の元に米軍大佐が通訳と一緒に訪れて、訃報を告げたが、その際、「瀬戸内海で死んだことにして欲しい」と言った。憲法9条とのからみもあり、国際問題になる事を避けるため、と説明された。

 父親の力三郎はかつての陸軍近衛兵であり、それが国のためになるのなら、と黙って米軍大佐の申し出を受け入れた。27日、呉海上保安部にて、海上保安庁葬が営まれ、同艇の乗組員たちも参列したが、彼らが朝鮮で掃海作業に従事していたことは、厳重に口止めされていた。

 失意のためか、母親のハナはその後間もなく亡くなり、半年後、父の力三郎も後を追うように息を引き取った。

 当時、海上保安庁長官だった大久保武雄のその後の奔走により、30年近く後の昭和54(1979)年、亡くなった坂太郎に「戦没者叙勲・勲八等白色桐葉章」が授与された。大久保は、国事に殉じた一青年を国家として慰霊・顕彰していないことの責任を30年にわたって背負い続け、ようやくせめてもの叙勲にこぎ着けたのだった。

 これを機に、坂太郎の兄・藤市は、靖国神社に弟の合祀を申請した。国のために「戦死」したのだから、靖国神社に祀られることこそ坂太郎の本懐であろう、と考えたのである。靖国神社としても、できることなら合祀したいと考えたが、「朝鮮戦争にあっては現在のところ合祀基準外となっている」とのことで、いまだ実現していない。

■8.日本の独立を早めた掃海部隊の貢献

 犠牲者まで出た触雷事故に、一部の掃海艇長から「38度線以北には行かない」などと内輪で取り決めていた事項が守られていない事に関する不満が一気に噴き出した。それをなだめるべく、より安全な掃海方法への変更を米軍に提案したが、米軍は遅れている元山上陸作戦を早く実行するために「予定通り掃海を実行せよ」と聞き入れない。

 これに憤って3隻の掃海艇が任務を降りて、内地に引き返した。しかし、入れ替わりに日本から直ちに5隻の掃海艇が新たに増派されて、掃海作業を続けた。

 世界最強の米艦隊は3千個の機雷に行く手を阻まれ、日本の掃海部隊が掃海を完了するまで、じっと待っていなければならなかった。10月26日、掃海を終えて、ようやく米軍による元山上陸が実行に移された。

 一度、日本の部隊によって掃海された海域は、やり直しの必要はなかった。国連軍の他の国による掃海は、そうはならなかったことから、日本掃海部隊の実力と貢献は高く評価された。

 元山以外にも、仁川、群山など各地の港湾、航路の掃海が、日本の部隊によって行われた。冬の日本海の高波、強風、そして雪の舞う中を、掃海隊員たちは一日中、甲板で黙々と掃海作業に従事した。その姿と確実な掃海ぶりは、国連軍の信頼を集めた。

 延べ46隻、1200名以上の隊員が参加した特別掃海隊は12月15日に任務を終えた。米極東海軍司令官ジョイ中将からは、米海軍の最大級の賛辞”Well Done”が贈られた。

 翌昭和26(1951)年3月31日、米国から対日講和条約草案が示されたが、それは外務省が予想したよりも遙かに日本に有利なものであった。日本に掃海艇派遣を要請したバーク少将は大久保長官にこう語っている。

 海上保安庁掃海部隊が朝鮮半島で国連軍を援助したことは、国際的にきわめて有意義であった。今回の海上保安庁の業績は高く評価されており、私個人の考えでは、日本の平和条約締結の気運をぐっと早める効果をもたらしたと思う。

(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/

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