■1.日本人はなぜ酒が弱いのか
海外に出ると、日本人は酒が弱いと痛感する場面によく出会う。欧米人は言うに及ばず、中国人も強い酒をぐいぐい飲んでも平気である。見た目は同じような体格、風貌をしているのに、なぜこんなに違うのか、と思うことがしばしばである。
日本人の中でも、酒の強さには地域差があって、東北や南九州、四国の人は強い。酒が弱いのは、近畿地方を中心とした中部地域のようだ。
実は、この理由はDNAの研究によって科学的に解明されている。アルコールを体内で分解する能力を発揮させる遺伝子があって、正常な人はこれが働いて相当量のアルコールを分解する能力を持っているが、なかにはこの遺伝子が変異して、分解能力を失った人々がいる。
この変異型は中国南部で発生した。したがって中国人は酒が強いと言っても、南部の人は比較的弱いとされている。
その遺伝子を持つ人々が日本にやってきて、北九州から近畿地方にかけて広がった。東北、南九州、四国などではそれ以前から住んでいた正常型の遺伝子を持つ人々が多いので、今でも酒が強い。
興味深いのは、アメリカの先住民の中にも、変異型の遺伝子が見られることで、これは中国南部からアジア大陸を北上し、ベーリング海峡を渡って、新大陸に移住した人々がいたことを示している。
このように、DNAを辿ることで、人類の移動の足跡を辿ることができるのである。
■2.アフリカで生まれた現代人の祖先
DNA分析と化石の研究から、現代人の直接の先祖は10~20万年前にアフリカで誕生したと考えられている。
当初の集団の人口規模は子供や年寄りを含め、2万人程度いたと見積もられている。その中のただ一人の女性のDNAを、現在60億人もいるすべての現代人が引き継いでいる。この意味で「人類は皆兄弟」と言える。
この先祖集団のごく一部が、8万5千年から5万5千年前にアフリカを出た。ルートとしては、エチオピアから紅海の入り口を渡ってアラビア半島に出たという説が主流となっている。
現在の紅海の入り口付近は20キロメートルもの幅があるが、当時は氷河期で、現在よりも70メートルも海水面が低下していたと考えられているので、もっと幅が狭く、島伝いに渡れた可能性もある。
ここから、彼らの一部はヨーロッパを北上し、別の一部は南アジアを経由して、東南アジアからオーストラリア大陸へ、さらに別の一部はアジア大陸を北上して、ベーリング海峡を渡り、アメリカ大陸に渡った。
その頃、同じくアフリカに生まれて、すでに世界各地に拡散していた旧人類がいた。ヨーロッパにはネアンデルタール人が、東アジアには北京原人の子孫が、東南アジアにはジャワ原人の子孫が住んでいた。
我々の祖先は、世界の各地でこれらの旧人類と遭遇したはずだが、その時、どのようなドラマが展開されたのかは、分かっていない。ただ旧人類はすべて滅亡し、我々の祖先だけが生き残っている。
■3.弥生人のルーツ?
日本人のルーツについては、従来から骨格、身長などの特徴を分析する形質人類学の立場から、南方から北上した縄文人が居住していた日本列島に、東北アジア系の弥生人が流入して、徐々に混血していったという二重構造論が唱えられてきた。
これに対し、DNAの研究では、これに合致する部分もあるが、さらに多様なルーツのヒト集団から成り立っていることが示唆されている。
日本人の中で一番多いのが、Dグループで4割弱を占める。このグループは中央アジアから、中国東北部、朝鮮半島、日本と広範囲に広がっている。アメリカ先住民の中にもこのタイプが見られる。
3万5千年以上前に誕生した比較的に古いグループで、広範囲に広がっていることから、このグループがいつ、どのように日本に入ってきたのかを推定することは非常に難しい。
二番目に多いのが、Bグループで、4万年ほど前に中国南部で発生したと推定されている。このグループもアジア大陸の沿岸部を北上し、アメリカ大陸に渡っているので、その過程で一部の人々は日本列島に入り、定住したと考えられる。
もう一つ南からやってきたFのグループは、日本人の5%ほどを占めるが、東南アジアを中心として分布している。中国南部や台湾の先住民に比較的高頻度で見られる。
時代はやや下るが、今から6300年ほど前、中国の黄河文明よりも千年以上の前から、長江(揚子江)で漢民族とは異なる文明が発生していたことが考古学的に明らかになり、その稲作や太陽信仰において、日本文化との共通性が指摘されている。
これらBかFのグループのいずれかが中国大陸南部から、直接日本に渡って稲作をもたらした弥生人であった可能性がある。
■4.縄文人のルーツは沖縄?
3番目に多いのが、M7と呼ばれるグループで、本土では7.5%を占めるが、沖縄では24%を占める。このグループは特徴的な分布をしており、日本以外では朝鮮半島で3.4%、東南アジア島嶼部で9.4%、存在する。
このうちのM7aというサブグループは、約2万5千年前に生まれたと推定されている。この頃には、地球の寒冷化で極地方に大量の氷が集まり、海水面が低下して、黄海から東シナ海にかけて広大な陸地が出現していた。
今は海底に沈んでいるこの地域に、M7aのグループが生まれ、そこから一部は東南アジア島嶼部に南下し、一部は北上して日本本土に広がった。このグループが縄文人の一つの候補とも考えられている。
従来の二重構造論では、沖縄は日本本土から離れた辺境の地とイメージされていたが、実は縄文人の源郷であった可能性がある。
また朝鮮半島では日本の縄文時代に相当する時期の人骨がほとんど出土していないので、従来の二重構造論では、弥生時代になってから、急に朝鮮半島との交流が生まれたように思われていた。
しかし、このM7グループが朝鮮半島にも見つかったことから、縄文人が九州から朝鮮半島南部にも広がっていた、と考えた方が自然であることも分かった。
もう一つ縄文人の候補としてN9bというグループがある。日本人の2%ほどを占めるが、日本以外ではほとんど見られず、また日本の中でも北に行くほど人口に占める割合が高い。M7aが南から入った縄文人だとしたら、N9bは北から入ってきた縄文人ではないか、という説がある。
■5.日本列島は多くのグループが往来する「賑やかな回廊」だった
その他にも、日本人の7%を占めるグループAは、バイカル湖周辺で3万年ほど前に誕生し、北東シベリアと北中米先住民の過半数を占める。旧石器時代のシベリアでは、マンモス・ハンターと呼ばれる狩猟民がいたことが知られているが、その一部が縄文以降に日本に入った可能性が指摘されている。
こうした実に多様なグループが日本列島にやって来て、しかも現代日本人の中に遺伝子を残しているのである。
日本はアジアの東端の「どん詰まり」の列島というイメージを抱きがちである。しかし、こうした多様かつ重層的な遺伝子グループの存在を見る限り、日本列島はアジア大陸の一部をなす「回廊」であり、多くのグループが往来し、さらには朝鮮半島に渡ったり、樺太やカムチャッカ半島から、アメリカ大陸に渡っていった人々もいた、という賑やかな往来をイメージした方が良さそうだ。
日本列島は、太古の昔から多くのグループが往来する「賑やかな回廊」であったのである。
■6.平和的な共存か、戦闘か
「賑やかな回廊」と言っても、そこで出会った様々なグループは、生存を賭けて戦いあったのだろうか。あるいは、平和的に共存し、混血・同化していったのだろうか。
この点においても、DNAの研究は興味深い事実を指摘している。九州北部の弥生時代のいくつかの遺跡から出土した渡来系弥生人とみられる人骨と、関東地方で出土した縄文人のDNAを比較したところ、両者はあきらかに異なる系統に属していることが判明した。
そして、現在の本土日本人のDNAは両者の中間的な構成になっていることが分かった。弥生人と縄文人が混血して、現代の日本人になったと仮定すると、この現象を合理的に説明できる。
まだ十分に検証されたわけではないが、多様なDNAグループが混在する現代日本人の構成を見ても、様々なヒト集団がいろいろな時期にいろいろなルートでやってきて、混血・同化し、徐々に一つの民族となっていった、と考えても良さそうだ。
■7.Y染色体DNAが残す征服の痕跡
今までに述べてきたDNAは、ミトコンドリアという細胞内の小器官に属するもので、母親から子供に伝えられる。これによってたどれるのは母系のルーツである。
あるグループが別のグループを征服し、男を皆殺しにして、女性を奪った場合でも、その女性を通じてミトコンドリアDNAは残されていく。したがってミトコンドリアDNAの分析だけでは、平和的な混血による拡散と、戦闘による拡散との区別はつかない。
ところが、男系にのみ伝えられるY染色体のDNAをたどっていくと、このあたりが解明できる。
たとえば南米の先住民に、ヨーロッパ系のDNAがどの程度、流入しているのかを調査した研究がある。ここでは女系のミトコンドリアDNAの比率よりも、男系のY染色体DNAの比率が6~9倍も高かった。
すなわちヨーロッパから男たちが戦士としてやってきて、現地を征服し、女性を略奪して、その男系DNAを高頻度で残した、ということである。
同様にモンゴルのチンギス・ハンとその子孫が、築き上げた元帝国の版図内では、チンギス・ハンに由来するY染色体DNAを持つ男性は、総人口の8%、1600万人もいる、という研究がある。
■8.平和的な共存を示唆する日本人のY染色体DNA
日本人のY染色体DNAをグループ分けすると、C、D、Oという三つの系統が90%以上を占めている。これらのグループは人類全体の系統図の中でも、互いに大きく離れており、女系のミトコンドリアDNAと同様に、日本列島のヒト集団の多様性、重層性を示している。
興味深いのは、この構成が中国や韓国とは大きく異なっていることである。中国、韓国では、Oが圧倒的に多く、Dはほとんど見られない。Dが多く見られるのは、日本以外ではチベットである。
グループDは沖縄では56%もの高率を占めており、ミトコンドリアDNAでのM7aグループがやはり古い起源で、沖縄で飛び抜けた高率を占めていたことと考え合わせると、これが縄文人のY染色体DNAだった可能性がある。
とすると、この現象を合理的に説明しうる仮説としては、中国や朝鮮半島ではOグループが戦争や虐殺によってDグループを滅ぼしたが、日本やチベットでは平和的に共存して、両方のグループが残った、という考えられる。
歴史が残されている後世の時代を見ても、海に囲まれた日本や、山に囲まれたチベットでは外部からの侵略者もあまりなく、内部でも激しい内乱や虐殺はほとんどなかった。それに対して、中国や朝鮮は多民族が入り乱れての戦乱に継ぐ戦乱が繰り広げられてきた。先史時代においても、同様であったと考える方が、合理的であろう。
■9.「一つ屋根の下の大家族」
DNA研究は新しい学問で、まだ確定的な結論を出せる段階ではないが、以上のような研究成果を踏まえれば、様々なヒト集団が様々なルートを通じて日本列島に入り込み、そこで中国大陸などよりもはるかに平和的に融合していった様子が窺われる。
これは古事記、日本書紀に記された建国神話にも見られる傾向である。初代・神武天皇率いる天孫族は九州の日向の国を出発し、大和の地を目指していくのだが、その過程で多くの部族と出会う。抵抗する部族と戦うこともあったが、帰順して、天孫族から農業を学ぶ集団も少なくなかった。
そして大和の地にたどり着いた神武天皇は、「天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか」との宣言を行う。
天地四方から様々なルートを経由して、日本列島にたどり着いた多様なヒト集団が、「一つ屋根の下の大家族」のように暮らすことを理想として建国されたのが、我が国なのである。
人類はアフリカの一人の女性を先祖とする「兄弟」として始まったが、世界各地に拡散・分化した後で、再びアジアの東端の日本列島で「一つ屋根の下の大家族」として融合した、と言えるかも知れない。
(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
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