■1.逃げ足の速いアジテーター
『国家の実力 危機管理能力のない国は滅びる』という本がベストセラーになりつつある。危機管理の第一人者・佐々淳行氏が、現代の碩学・渡部昇一氏を聞き役に「日本をこのままにしておいてはいけない」と、思いのたけを語った本だ。発売一週間でたちまち1万部を突破し、amazonのノンフィクション分野で1位となっている。
早速読んでみたが、政治とは国民を護るためのものなのに、それが全くできない菅政権の本質が明らかにされており、佐々氏の公憤と憂国の思いが迫ってくる。
それもそのはずである。菅首相は、かつて学生運動の中心人物であり、大変なアジテーターだったという。演説を始めると500人ほどの学生が集まってきて、皆興奮し、闘争的な雰囲気になる。
その菅氏を当時、警視庁に奉職していた佐々氏は3回も捕まえ損なったという。菅氏は学生を扇動するが、実際のデモ闘争では4列目にいて、前の3列までは警察に捕まるが、乱闘になった途端に菅氏はどこかにいなくなってしまう。ここから、佐々氏は菅氏を「第4列の男」と呼ぶ。
逃げ足の速いアジテーターが、かつての価値観のまま、首相になってしまったらどうなるのか、その混乱と悲劇の様を我々は今、目にしている。
■2.40年前の経験則だけを頼りに
佐々氏は、菅首相らの原発災害への対応が学生運動家の精神状態のままであることを、以下のように明らかにしている。
福島第一原発の電源が失われて、冷却装置が使えず、早急に原子炉を冷やさなければならなくなった時、菅政権が指示したのが、警視庁第一機動隊の高圧放水車の投入だった。
学生運動が盛り上がっていた昭和43(1968)年の暮れに、いままでの放水車ではどうにもならないというので導入したのが、この高圧放水車だった。これを水平に構えて、デモ隊の足元を狙って打つとたちまち引っくり返る。「きっと菅さんも仙谷さんもなぎ倒された経験があるんじゃないですか(笑)」と佐々氏は語る。
しかし「高圧」と言っても、あくまでも暴徒を怪我をさせない程度になぎ倒すものだ。学生運動家たちに占拠された東大の安田講堂に向けたら、窓にはったベニヤ板に跳ね返されてしまったという。水平に向けた時の射程も100メートルしかなく、結局、原発冷却には役立たなかった。
出来ないと分かりきっていることを、無理矢理やらされた「警視庁第一機動隊の無念さは察するに余りある」と佐々氏は、ある本に書いた。
次に選んだのが、ヘリコプターから水をかけるという手段だった。これも安田講堂に対して、佐々氏らがとった戦術だったという。しかし、ヘリコプターの回転翼の起こす風で、水があらぬ方向に散ってしまって失敗した。その失敗も知らずに、菅政権はこの手段を指示して、やはり同じ失敗を繰り返した。
結局は、遠距離からピンポイントで水を注入できるコンクリートポンプ車が効果を発揮したのだが、業者は「あれを使えばいいのに」と最初から言っていたという。
世界中が福島原発の危機を固唾を呑んで見守っている最中に、菅政権は自分達だけで手柄を立てて国民にアピールしようと、40年前の経験則だけを頼りに、意味のない指示を次々と下していた。その間に、国家国民を護るための貴重な時間が、刻々と失われていった。
■3.「まず防災服に着替えよう」
菅政権の異様な振る舞いは、これに限らない。
地震直後に各閣僚がすぐさま官邸に集まったのは良いが、菅首相は「まず防災服に着替えよう」と言い出した。防災服でテレビに出れば、第一線に立って非常事態への対応に邁進する内閣、というアピールでもできると思ったのか。
この緊急事態に1分1秒でも早く動いて、国民を護ろうということよりも、自らのパフォーマンスの方が大事なのである。しかし、いつも折り目正しい防災服を着ていることで、逆に底の浅いパフォーマンスであることが見透かされてしまった。
原発事故の後、最初にテレビに出て解説した審議官は原子力の専門家で「炉心溶融(メルトダウン)が進んでいる可能性がある」と発言したところ、菅首相は、この発言が軽率だと怒って、交代させたようだ。
替わって出てきたのが、原子力安全・保安院の人だが、実は東大法学部出身の経済官僚。原子力の専門家でもなんでもない。原発の汚染水の濃度を許容量の1万倍と発表した後に、10万倍と訂正し、その翌日は1千万倍。その後は平気な顔で10万倍と言う。
自らのパフォーマンスのために、専門家に意見も言わせず、かわりに素人がいいかげんなことを言う。正確な情報を提供してこそ国民も安心して、政府の指示に従うことができるのだが、これでは国民の不安と混乱が増す一方である。
こういうところからも、菅首相は自分のパフォーマンス第一で、一人でも多くの国民を救おう、という思いは微塵も感じられない。40年前のアジテーターは、今もそのままなのだ。
■4.「これが危機管理というものです」
真の危機管理とは、どういうものか、佐々氏は内閣安全保障室長在任中に体験した大島三原山噴火の際の対応を例に語っている。
昭和61(1986)年11月に大島の三原山が噴火し、溶岩が地元の町に迫った。全島民1万人、観光客3千人の生命が危機にさらされた。
最初に、国土庁に19省庁を集めて災害対策会議が始まった。ところが、名称を「大島災害対策本部」とするか「三原山噴火対策本部」とするか、などと、どうでもいいようなことを議論している。
これでは埒があかないと見た佐々氏は、即座に中曽根康弘総理に安全保障会議の設置を進言した。これは重大な危機の発生時に各省庁の動きを一元化して、取り組むための体制である。
中曽根首相は「全責任を私が負うから、指揮しろ」と佐々氏に命じた。佐々氏はすぐに都知事の鈴木俊一氏に、海上自衛隊出動要請を促した。さらに島民を避難させるために、橋本龍太郎・運輸大臣の権限で、夏しか就航しないフェリーボートなども含め、約40隻を現地に向かわせた。
国土庁の災害対策会議が終わった午後11時45分頃には、すでに島民に避難指示が出され、午前4時までには全島民1万人、観光客3千人が船に乗っていた。
船団が東京の竹芝桟橋に向かっている間に、東京の公立学校やYMCAなどで宿泊所を確保し、毛布や握り飯の準備が進められていた。「これが危機管理というものです」と佐々氏は語る。
■5.国民を護ろうとする首相、しない首相
この事例を今回の大震災と比べて、改めて感じるのは、首相の姿勢の違いである。
中曽根首相は「全責任を私が負うから、指揮しろ」と佐々氏に命じた。こうした場合の首相の役割とは、適任の人材を実務のリーダーに任命し権限を与えること、そしてその責任をとること、の二つである。その結果、専門家の佐々氏が辣腕を振るって、島民救助に成功したわけである。
菅首相の姿勢はまるで逆である。専門家の意見も聞かず、自分がしゃしゃり出て、放水の方法まで指示する。失敗しても責任はとらない。今の政府に佐々氏に匹敵する人材がいたとしても、こんな首相のものでは、腕を振るえるわけがない。
姿勢の違いの根本にあるのは、政治家としての志の違いであろう。中曽根首相の言葉からは、この危機にあたってなんとしても国民を護ろうという意思が感じられる。
逆に菅首相の「まずは防災服に着替えよう」という言葉からは、国民を護ろうという心はかけらも感じられない。
政治の根本をつきつめれば、犯罪者や災害や外敵から国民を護ることである。佐々氏は「治安と、防衛と、外交だけが国家の仕事である」という言葉を引用して、それがリーダーの仕事である、と主張している。
■6.治安・防衛・外交
この治安と防衛と外交を一貫して、ぶちこわそうとしてきたのが、菅氏がアジテーターを務めていた頃の学生運動だった。
治安については、当時の学生運動は、全国で大学紛争を起こし、街頭でデモ行進をして、時には激しく機動隊と乱闘まで展開した。高度成長で豊かになった社会で、彼らは最大の治安攪乱者であった。
防衛については、「アンポ反対」と街頭デモで気勢を上げる。日米安全保障条約への反対、そして反自衛隊活動。「反核」を叫びつつ、反対するのは同盟国アメリカの核のみで、ソ連、中国の核については反対活動はしなかった。結局、我が国の防衛力を弱めることが学生運動家たちの狙いだった。
外交についても、反米親ソが彼らの基本政策だった。ソ連は世界共産革命をめざしており、彼らはその一翼を担っていたのだから、そこには日本国としての独自の外交という考えはあり得なかった。
「治安と、防衛と、外交だけが国家の仕事」という姿勢とは正反対で、彼らがしていたのは、いかに日本国の「治安・防衛・外交」をぶち壊すか、という反国家的な活動であった。
時あたかも、東西冷戦の最中で、我が国は西側につき、日米同盟と自衛隊に守られて、平和と繁栄を謳歌していた。学生運動家たちは、そんな温室の中で「革命ごっこ」に明け暮れていたのである。
そんな革命ごっこのアジテーターあがりの菅氏が、いまや国家の中枢にいる。いきなり「治安・防衛・外交」をきちんとやって国民を護ろう、などと正反対の志を持てるはずもない。
温室の中で、平和と繁栄を謳歌していられる時代は過ぎた。今や、政権中枢で「治安・防衛・外交」をぶち壊す「革命ごっこ」をやられたら、国が滅びる時代である。
■7.我々自身が「治安・防衛・外交」を忘れていた
現実に菅氏のような人物はいつでも、どこにでもいるものだ。真の問題は、こうした人物を首相にしてしまった事であろう。
その前の鳩山氏も「治安・防衛・外交」への知識も責任感もなかった事を考えれば、これはたまたまの人選の失敗というより、もっと根深い、我が国の体質的欠陥であると言わねばならない。
問題はやはり、我々自身が平和と繁栄の中で「治安・防衛・外交」を忘れ、なおかつこれらの重要性を隠してきた左翼的な報道と教育を正すことができなかった、というところにあるのだろう。その安逸と怠惰の中で、自民党は衰微し、民主党がバラマキ政策で政権をとり、かくしてかつての逃げ足の速いアジテーターが首相になってしまったわけである。
すなわち、こういう人物を首相にしたのは、我々自身の精神の混迷と衰弱である。我々の反省は、まずこの点に向けなければならないだろう。
■8.天皇制は危機管理の国家機関
どこから改めるべきか。そのヒントを筆者は、佐々氏の天皇陛下のメッセージに関する次の発言に見る。
それにしても改めて、天皇制は危機管理の国家機関であると思いましたね。災害でみんなの心が沈んでダメージを受けているところへ必ず出かけられるでしょう。終戦の時もそうでした。
終戦時、日本中が焼け野原になった時、昭和天皇が日本全国を巡幸されて国民を励まされた。我が国の奇跡的な復興はここから始まった。
幕末の黒船の危機においても、明治天皇を中心に、江戸幕府から明治新政府に一大転換を果たし、そこからアジアで最初の近代国家を築いていった。
なぜ天皇制が危機管理の国家機関になりうるのか。その理由は、天皇の役割りが、無私の御心で国民の安寧を祈られることだからだ。
その御心を体して、政治家が政治を行えば、まずは国民を護ろうという志となり、それが治安・防衛・外交のそれぞれの分野の専門家により政策として展開されていく。
特に国家的危機の場合は、国民それぞれが各自の利害を離れて、国家と国民を護るために、力を合わせていくことが必要だが、天皇が民の安寧をひたすらに祈られる姿を中心とすることで、国民それぞれの思いが一つにまとまりやすい。
天皇は国民統合の象徴という憲法第一条の真の意義はここにある。そして、この国民統合は平時よりも危機の時にこそ、必要とされるものだ。
国民一人ひとりが、互いを護るという志を持って、我が国の治安・防衛・外交を真剣に考え、それを託すに相応しい政治家を選ぶところから始めるべきだろう。
本書のサブタイトルは「危機管理能力のない国は滅びる」だ。「危機管理能力」とは、限られた専門家の持つべき特殊技術というよりも、国民一人ひとりが国家国民の安全を思う、その思いの深さであるとすれば、それがなければ「国は滅びる」というのは、自明のことであろう。
(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
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