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2011年8月19日 (金)

国柄探訪:「人生二度なし」~ 森信三『修身教授録』を読む(人生の根本目標は真に生き甲斐がある日々を送ること以外にはない)

■1.「人身うけがたし」

 地球上には、牛や馬、犬猫、蛇、カエル、魚、虫、さらには草木から細菌まで含めれば、無数の生命が、日々、生まれている。

 一つの生命が、このようないろいろな生き物の体を与えられて転生を続けると、仏教では考える。しかし、すべての生きものの数を考えれば、人間としての肉体を与えられるのは、数億回に1回というような確率だろう。仏教では「人身うけがたし」という言葉で、人間に生まれることがいかに希有なことであるか、を説く。

 しかも、我々が人間に生まれついたのは、自分の力でも功績によるものではない。ここに気づけば、希有な人身としてたまたま生を与えられた事の有り難さをしみじみ感じることができるだろう。

 自分は人間として生まれるべき何らの功徳も積んでいないのに、今、こうして牛馬や犬猫とならないで、ここに人身として生を受けたことの辱(かたじけな)さよ! という感慨があってこそ、初めて人生も真に厳粛となるのではないでしょうか。
「人身受けがたし」という有り難さを、まずしみじみと感得することが、人として真に生きる道へのスタートとなる。

「人間教育の師父」とも呼ばれる哲学者・教育者、森信三による天王寺師範学校(現・大阪教育大学)の学生たちへの昭和12(1937)年の講話はここから始まった。

■2.人間だけが自分の生き方を考えることができる

 ほとんどの人は、この点に気がつかずに、自分が今生きていることを当たり前だと考え、勉強や仕事がつまらないなどと不満をもらしながら、毎日を送っている。そうしているうちに、人として生まれたという希有な幸運を生かすことなく、貴重な毎日が過ぎ去っていく。

 しかし、いくら自分の人生に不平不満を言う人でも、「こんな人生だったら、俺は牛や馬に生まれた方が良かった」という人はいないだろう。

 人間が他の動物と違う点の一つとして、自分の人生をどう生きるか考えることができる、という事がある。自分の人生に不平不満を持てるのも、もっと良い人生を送れるはずだ、と考える事ができるからだ。

 すなわち人間だけが自分の生き方を考え、様々な制約はあるにしろ、その中で、自分の努力によって生き方、生き様を変えていくことができる。

 森信三は、「人生の根本目標は、結局は人として生をこの世に受けたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にない」として、次のように説く。

 すなわち人生の意義とは、たとえて申せば、ここに一本のローソクがあるとして、そのローソクを燃やし尽くすことだとも言えましょう。つまり半分燃やしただけで、残りの燃せさしをそのままにしておいたんでは、ローソクを作った意味に叶わないわけです。つまりローソクは、すべてを燃やし尽くすことによって、初めてその作られた意味も果たせるというものです。
 自分という一本のローソクをどう燃やし尽くすのか、それが人生を考えるための出発点である。

■3.万人それぞれが持つ唯一独自の任務

 一本のローソクと言っても、それは大量生産されて、寸分違わぬ同じローソクがたくさんある、ということではない。一本一本が、違う家庭に生まれ、異なる才能、適性、性格を持つ個性的な存在である。

 とするなら、各自の人生の燃やし尽くすにしても、それぞれの燃やし方があるはずであり、そこには他の人には容易には代替しがたい唯一独自の分担がありうる。

 森信三は、教師を志す師範学校の生徒たちに、こう語りかける。

 たとえば諸君らが、近い将来において一学級の担任教師となった場合、諸君等の受け持つ学級は、諸君が受け持っている限り、天下何人もこれを受け持つことはできないのです。・・・

 もちろんこれは、道理としては田畑を耕す農夫も、また工場に働く職工もみな同様であります。すなわち万人いずれも唯一無二、何人にも任せられない唯一独自の任務に服しているわけですが、只(ただ)それに対する十分な自覚がないために、生涯をかけてその一道に徹し、もって国家社会のお役にたつほどの貢献がしがたいのです。

 たとえば今一人の農夫が、農業の道を通して真実に生きようと決心して、永年その研究を重ねていったならば、いつかは他の人々の参考になるような農事上の発見もできるでしょう。・・・

 そもそも人間界のことというものは、一人の人間が自己に与えられた職責に対して、真に深く徹していったならば、その足跡は必ずや全国各地の同じ道を歩んでいる幾多の人々の参考となり、その導きの光となるはずであります。
 森信三は、学生一人ひとりに自分の持つ「唯一独自の任務」は何か、それにどう徹していくかの覚悟を求める。

■4.小学校教師の道

 たとえば、小学校の教師の道に深く徹するとは、どういう事か。小学校で教える程度の内容は造作もない、と考える教師は、そこで進歩がとまってしまい、仕事がつまらない、などと不平不満に走るだろう。

 どうしたら、子供たちが興味を持って真剣に聞き入る授業にするのか、と考え出したら、わずか1時間の授業でも、3時間も4時間も準備に費やしてもまだ足りない、ということになるだろう。

 さらに目を転じて、教育の眼目である相手の魂に火をつけて、その全人格を導くということになれば、私達は教師の道が、実に果てしないことに思い至らしめられるのであります。・・・

「一寸の虫にも五分の魂」という諺もあるように、仮に学識や年齢の上では相当の距離があるとしても、眠っている相手の魂が動き出して、他日相手が「先生に教えを受けたればこそ今日の私があります」と、かつての日の教え子から言われるほどの教師になるということは、決して容易なことではないでしょう。
 小学校教師の道に徹しようとすれば、そこには無限の道のりがあるのである。そして生涯、それを追求していけば、多くの生徒に幸福な人生を歩める力と志を与え、また同僚教師たちに貴重な示唆を与える存在になるであろう。それが小学校教師としての自分の人生のローソクを燃やし尽くす、ということである。

■5.自ら学ぶ果てしのない一道

 しかし、「相手の魂に火をつける」ような教師になるには、一体どうしたら良いのか。

 私としては、それに対処しうる道はただ一つあるのみであって、それは何かと言うと、人を教えようとするよりも、まず自ら学ばねばならぬということであります。

 かくしてここに人を教える道は、一転して、自ら学ぶ果てしのない一道となるわけであります。・・・

 しかるに、もし諸君らにしてこの根本の一点に気付かず、もう自分たちは学校を卒業したんだから、もはや学ぶ必要なんかなくて、ただ教えていればそれですむとでも考えたとしたら、お気の毒ながら諸君は卒業と同時に、すでに教育者たるの資格を失うわけであります。
 当時、「師範学校の卒業生は、大体卒業後5年くらいたつとすでに下り坂になる」と言われていたそうだ。それは学校を卒業して、教職につく事をゴールと考えているからだろう。その後に残るのは、「燃えさしのローソク」のみである。

■6.自分の「真の面目」を発揮する

「自ら学ぶ」と言っても、現在の目の前の仕事を適当に片付けて、将来のために勉強をするというのではダメだと、森信三は釘をさす。
 ・・・人が真に自分を鍛え上げるには、現在自分の当面している仕事に対して、その仕事の価値いかんを問わず、とにかく全力を挙げてこれにあたり、一気にこれを仕上げるという態度が必要です。そしてこの際肝要なことは、仕事のいかんは問題ではなくて、これに対する自分の態度いかんという点です。

 否、ある意味では、さほどの価値のないことでも、もしそれが自分の当然なすべき仕事であるならば、それに向かって全力を傾け切るということは、ある意味では価値ある仕事以上に意義があると言えましょう。
 何故か。森信三は、これを試験に例えて説く。試験にあたって、「まあ落第さえ、しなければいいや」と手を抜く生徒は当時もいた。しかし、あえて120点を目標として準備する。「先生方が100点の人と区別をつけるのに、困るくらいの意気込みでやることです」

 どんなつまらない科目でも、120点主義で望めば、自分の力と自信がつき、面白みも出てくる。周囲の人からも認められる。職場であれば、こういう人の所には、それだけ難しい、価値のある仕事が回ってくるものである。

 森信三は、このような姿勢を「真面目」と呼ぶ。「まじめ」だけではなく、自分の「真の面目」を発揮する、という姿勢である。ローソクの例えで言えば、完全燃焼するということだろう。

 力というものは、一たんその気になり、決心と覚悟さえ立ったら、後からあとからと無限に湧いてくるものです。それはちょうど、井戸に水の湧くようなもので、もう汲みだしてしまったと思っても、いつの間にやらまた溜まっているようなものです。

 そこで、真面目な生活に入るに当たって大事なことは、力の多少が問題ではなくて、根本の決心覚悟が問題です。

■7.「心の食物」

 しかし、目前の仕事に全力を投入しつつも、「唯一独自の任務」を志す人は、寸暇を生み出して、読書に向かわざるを得ない。

 すなわち自分の抱いている志を、一体どうしたら実現し得るかと、千々に思いをくだく結果、必然に偉大な先人たちの歩んだ足跡をたどって、その苦心の跡を探ってみること以外に、その道のないことを知るのが常であります。

 ですから真に志を抱く人は、昔から分陰を惜しんで書物をむさぼり読んだものであり、否、読まずにはおれなかったのであります。
 たとえば、二宮尊徳は各地の農村再興に慌ただしい生活を送りながらも、読書と執筆に励み、36巻もの全集を残した。昔の小学校には、子ども時代の二宮尊徳が薪を背負って歩きながら、本を読んでいる銅像があったが、寸刻を惜しんでの読書こそ、強い志の現れなのである。

 食物が身体を養うように、書物は心を養う。

 実際われわれは、この肉体を養うためには、一日たりとも食物を欠かしたことはなく、否、一度の食事さえ、これを欠くのはなかなか辛いとも言えるほどです。・・・

 ところが、ひとたび「心の食物」ということになると、われわれは平生それに対して、果たしてどれほどの養分を与えていると言えるでしょうか。からだの養分と比べて、いかにおろそかにしているかということは、改めて言うまでもないでしょう。

■8.「立志」をなおざりにした青少年教育

「人生二度なし」とは、森信三の信念であった。そして一度しかない人生をどう生きるか、と森信三は青年たちに問うた。

・・・われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人としての生をこの世にうけたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にないと考えるからです。そしてお互いに、真に生き甲斐があり生まれ甲斐がある日々を送ること以外にはないと思うからです。
 自分の人生の意義をどこに見出すか、その覚悟を決めることを、「立志」と言う。古来、我が国の教育においては、この「立志」が最も重視された。志がないままに、いろいろな知識を教え込んでも、無用の長物である。逆に志さえあれば、必要な知識は自分で求めてやまないようになる。

 こうした志を持つ人のみが真に生き甲斐のある人生を送れる。そして、そのような国民の多い国家社会ほど、その働きによって平和と繁栄がもたらされ、国民全体を幸福にできる。

 こうして見ると、現代の日本の教育問題は、「立志」をなおざりにしたまま、知識のみを詰め込んでいる所にある事が見えてくる。これでは、青少年らしい元気が出てくるはずもない。

 これは教育者だけの問題ではない。国民一人ひとりが、それぞれの家庭や地域社会、職場の中で、自分の志を実現するために力を尽くしていく、という生き方をすれば、その後ろ姿が子供たちにも何事かを語りかけていくだろう。

(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm
                

 

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