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2011年11月23日 (水)

地球史探訪:日本を作った人口の波~我が国は4つの波を乗り越えて、ダイナミックに発展してきた~

■1.江戸時代は人口停滞の暗黒期?

「江戸時代後半の農民は重い貢租を課せられて、食うや食わずの生活を送っており、堕胎や間引き(生まれた子どもをすぐに殺すこと)が広く行われていたうえに、度重なる飢饉と流行病に襲われて、人口は停滞した」と高校の日本史で教えられた人は多いであろう。

 最近、歴史人口学という学問が発展し、史実に基づいた研究により、こうした見方に異議が唱えられている。

 確かに、江戸時代後半は人口停滞の時代だった。徳川幕府の全国人口調査をベースとした推計によると、享保6(1721)年の31百万人が、弘化3(1846)年で32百万人と、125年間で3.2%、年平均0.03%の増加に留まっている。

 しかし、この数値だけつまみ食いしては、歴史の全体像を見誤る恐れがある。1600年頃、江戸幕府が樹立された当時の人口は、諸説あるが、中間的な説によると12百万人。とすると、1721年までの120余年間に19百万人も増加し、2.5倍になったという事になる。まさに江戸時代前期は人口爆発の時代だった。

 また人口停滞と言われる期間を、人口が最も落ち込んだ1792年を境として分けてみると、1721~92年は4.5%の減少、1792~1846年は8.5%の増加と、くっきりと二分される。19世紀の増加は、そのまま明治以降の急速な人口増加の先駆けとなっている。

 したがって江戸時代後半の人口停滞期、それも70年ほどの限られた期間だけをとりあげて、「重い貢租、堕胎や間引き、飢饉、流行病」などと、江戸時代全体を暗黒時代であったように描くのは、学問的バランスを欠いており、ことさら過去の歴史を悪しく描こうとする政治宣伝と批判されても仕方がないであろう。

■2.第一の波 ~ 縄文時代の人口増加

 この70年ほどの人口停滞期がどうして起こったのか、その謎解きの前に、過去1万年ほどの日本列島での人口の変動を見てみよう。

 日本列島に住む我々の先人の生活を、さまざまな遺物からはっきりと再現できるようになるのは、およそ1万年前の頃からのことである。約1万年前から6千年前の縄文早期の人口は2万人程度とみられている。

 その後、約5~4千年前の縄文中期には、26万人程度まで順調に増加した。これが日本列島における第一の波と言われている。

 青森県で発見された三内丸山遺跡は、約55百年前から15百年間栄えた集落で、ちょうどこの最盛期に当たる。約100棟の掘立柱建物、約580棟の竪穴住居が整然と配置されており、なかには高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築もあった。

 近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂って、そこから食糧を採取していた。

 縄文期を通じて、人口は東日本に偏っており、縄文中期の26万人のうち96%が関東、東北、北陸の東日本に集中していた。

 これは西日本では木の実を主食としていたが、東日本ではさらに遡上するサケ、マス類を食べることができたからである。しかし、その後、45百年前を境に、寒冷化が進み、25百年前の晩期までに平均気温が3度も低下した。

 これによって人口は縄文後期、約4~3千年前には16万人、晩期約3千年~23百年前には7万6千人と減少していった。寒冷化による植生の変化で、人口を支えるだけの木の実類がとれなくなり、特に東日本では人口が80~90%も減少してしまった。

 逆に、西日本では気温低下の影響はさほどではなく、また縄文後期・晩期には、イモ、豆、雑穀などを栽培する焼き畑農業が広がって人口は増大した。

■3.第2の波 ~ 稲作による人口増加

 紀元前3世紀頃、西日本から稲作農耕が広がり、国家形成と相まって、人口増加の第二の波が始まった。

 3世紀のヤマタイ国時代には、『魏志倭人伝』に記されている29カ国の戸数などから、220万人内外であったと推定されている。
 大化の改新後、天智天皇9(670)年に初めての全国的戸籍の作成が行われ、その後、6年ごとに戸籍調査が行われた。これらの調査結果をもとに、奈良時代末期、平安初期に該当する西暦800年頃の人口は600万人から650万人と推定されている。

 戸籍調査には、高度な読み書き能力を備えた多数の役人と、彼らを動員する強い行政力、膨大な負担に耐えうる国家財政力が必要となるので、現在も多くの発展途上国で未実施であることを考えれば、7世紀に戸籍調査を行っていることは、当時の国家の充実度を現す事実であろう。

 稲作文化は、次の二つの面で人口増加を支えたと考えられている。第一は、稲作によって単位面積当たりに養える人口が大幅に増えたこと。第二に、水田耕作が田植えや稲刈り、さらには灌漑施設の構築も含め、多くの労働力を必要としたことである。

 初代・神武天皇は九州から東征して、大和の地で即位したのだが、その過程で瀬戸内海の各地に長期間留まり、農業や漁業などを教えながら、移動したと言い伝えられている。我が国は、この第2の波の中で建国されたのである。

 気候の変化も、稲作の普及を後押しした。縄文晩期から弥生時代にかけて温暖化が進み、気温は上昇した。4世紀から7世紀にかけて一時的な寒冷期が訪れたが、奈良時代に入ると一転して気温上昇が始まり、12世紀頃まで続く。夏期の高温と日照を必要とする稲作には、適した季候だった。

 飛鳥・奈良・平安時代と続く古代国家の確立、隆盛は、この人口増を背景とする経済的発展を基盤としていたのだろう。

■4.第2の波の終わり

 西日本は高温と日照などの気候面、および緩やかな平野部が多いなど地形面から稲作に適しており、人口増の中心となった。しかし気候温暖化によって、稲作が東日本にも普及し、12世紀には再び関東地方が人口分布では首位となった。

 10世紀から12世紀にかけては、当時の技術で稲作可能な土地はほぼ開拓が終わり、また古代国家の公地公民制から荘園・公領制へと土地の私有化が進み、大規模な農地開拓ができなくなった。こうして稲作を原動力とする第2の人口増の波は終息した。

 12世紀は高温化と同時に乾燥化が進んだ。西日本を中心に日照りによる大飢饉に襲われた。鴨長明の『方丈記』には、養和元(1181)年、飢渇と疫病に襲われた京の町中で、乞食があふれ、打ち捨てられた屍が累々と道に横たわる悲惨な状況が描かれている。

 西日本を基盤とする平氏が倒れ、東国武士団が成長して源氏の鎌倉幕府が開かれた背景には、この人口変動があった。また飢饉の中で末法思想が現れ、大衆の救済をめざす鎌倉新仏教が現れた。

■5.市場経済化と生活革命による第3の波

 人口成長の第3の波は14~15世紀の室町時代から始まり、18世紀の江戸時代中期まで4、5百年続いたと推測されている。人口は平安末期の680万人台から、江戸時代中期の3千万人台へと飛躍した。

 第3の波は、市場経済化と生活革命という二つのキーワードでとらえる事ができそうだ。

 市場経済化とは、荘園内の自給経済から、農民の独立と貨幣による市場取引への進化である。

 農民が自分の田畑を持ち、自ら工夫を進めることで、収穫を増やすことができるようになった。そしてそれを市場で売り、様々な物品を手に入れることで生活を改善できた。これは農民の生産意欲を刺激し、技術の向上を通じて、農業生産性を大いに高めたであろう。

 高校の日本史では、織田信長の楽市楽座、太閤秀吉の刀狩と検地などを学ぶが、楽市楽座は自由市場取引を推し進め、刀狩と検地は独立した農民たちを農業に専念させ、年貢を徴収するための戸籍調査だったと解すれば、その意味がよく分かるだろう。

 生活革命の面では、従来の荘園に属していた農民は、生涯、独身のままというケースも多かったが、独立することによって、誰でも結婚するのが当然という「皆婚社会」が実現し、婚姻率の増加が出生率の上昇をもたらした。

 さらに食料供給の増加に伴う食生活の量的・質的充実、木綿栽培の普及による衣類・寝具の改善、畳敷きの普及による住生活の向上など、今日、日本的とされる生活様式がこの頃に作られ、それによって死亡率の低下も進んだ。

■6.寒冷化による人口停滞

 この第3の波が終わるのが、1800年を中心とする100年間の小氷河期であった。1789年に勃発したフランス革命も寒冷化による飢饉が原因の一つであったと言われている。

 我が国においても、宝暦(1753-63年)、天明(1782-87年)、天保(1833-36年)と凶作が続いた。1721-1846年の125年間で地域別の人口変動を見ると、東奥羽-18.1%、北関東-27.9%と大きな減少を見せており、凶作の影響が顕著に見られる。

 しかし、北陸、山陰、山陽、四国、南九州など他地区では、20%前後の増加を示しており、日本全体では3%の増加となっている。特定地域の飢饉という天災さえなければ、十分に人口増加が可能であったことが分かる。

 したがって、「農民は重い貢租を課せられて、食うや食わずの生活を送っており」とさも江戸時代の日本全体が暗黒時代であったかのように言うのは、事実に反する。

 確かに18世紀に人口成長がスローダウンしたのは、事実である。それは全国が諸藩に分割統治されていた経済体制の中で、従来の市場経済化、生活革命が一段落し、それまでの人口爆発を続けることが不可能となった事を意味している。

 その中で人々は、堕胎や間引きという一種の産児制限により、人口増加のペースを落とし、一人当たりの所得水準を逆に高めたようだ。そして、ここで作り出された余裕が次の第4の波を生み出す原動力となる。

(堕胎、間引きについては倫理的問題があるが、産児制限の技術がはるかに進んだ現代でも堕胎が行われている事実を踏まえれば、現代の日本人が江戸時代の日本人を責める資格はないだろう。)

 第4の波は、幕末から現代に至るまで続いた。弘化3(1846)年に32百万人だった日本の人口は、明治33(1900)年には47百万人、昭和25(1950)年には84百万人、平成7(1995)年には1億26百万人と、史上最大の人口急増を迎えた。

 第4の波の原動力は、言うまでもなく工業化による豊かな社会の実現である。工業製品の輸出によって食料輸入が可能となり、また国内の農業も、品種改良、耕作技術の進歩、機械化などによって、生産性が大幅に向上した。栄養状態の向上と医療技術の進歩によって、死亡率が大幅に下がり、寿命が大幅に伸びた。

■7.常に新しい波を生み出してきたダイナミズム

 このように人口の面から我が国の歴史を見渡してみると、

・第1の波 ~ 縄文時代、豊かな自然の中での安定した社会
・第2の波 ~ 稲作を原動力とした古代国家の建設と確立
・第3の波 ~ 農民の自立、市場経済化、生活革命
・第4の波 ~ 産業革命による工業社会

 一つの波が終わる頃に気候変動による混乱期はあったが、我々の祖先は技術革新や制度改革、生活革命などにより、その都度、新しい波を創り出して、質的量的に豊かな社会を実現してきた。その前向きのダイナミズムが見てとれよう。

 もう一つ留意すべきは、大規模の内乱などによる人口の大きな落ち込みがなかった事である。中国では1851年から14年間続いた太平天国の乱で5千万人もの死者を出したと言われている。また毛沢東の「大躍進」政策では、餓死者2~3千万人が出たと推定されている。

 これらに比べれば、我が国の人口は特定の時期の飢饉を除けば、なだらかな増加を示しており、それだけ国内では平和と安定が続いた事を示している。この平和と安定の中で、我々の先人は次々と技術、制度、生活の革新を果たしてきたのである。

■8.来るべき人口減少社会への挑戦

 現在は第4の波が終わり、今後、我が国の人口は減少していく事が予測されている。人類の大量生産・大量消費が地球環境を脅かすまでに増大したことを考えれば、人口減は当然の現象であろう。社会的・国家的衰退などといたずらに悲観視するよりも、新しい環境への適応であると考えた方が良い。

 少子高齢化への対応として外国人労働力の導入を主張する向きがあるが、これはすでに終わろうとしている第4の波を不自然な形で続けようという、はかない試みでしかない。問題は、少子高齢化に適合した新しい文明をどう創り出すかという事であろう。

 過去、次々と新しい技術、制度、生活を生みだして革新を続けてきた日本人のダイナミズムを、今回も発揮しなければならない。

 たとえば、定年後の20年、30年という長い第二の人生をどう有意義に過ごすのか、またこれらの人々の持つ技術、経験をどう社会に活かすのか。少子社会における教育はどうあるべきか。年金制度をどう改革したら良いのか、等々。

 こういう課題を一つひとつ乗り越えていくことで、第4の波が終息した後の新しい幸福な社会を創造することができよう。そしてそれによって、同様の問題を抱える多くの国々にお手本を示すことが我が国の使命でもある。

(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogindex.htm

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