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2011年11月26日 (土)

【西本幸雄氏死去】日本一なしも「こんな幸せ者はおらん」 プロ野球界きっての熱血漢

▼新監督の西本幸雄氏が率いる大毎は山内一弘、榎本喜八らの「ミサイル打線」でパ・リーグを制した。ところが日本シリーズではその打線が湿ってしまう。そこで西本監督は八回1死満塁のチャンスに5番打者にスクイズを命じ、失敗して併殺となり1点差で負けた。 

▼むろんそこまではどんな名監督でも一度や二度は経験した失敗だろう。その先がいけなかった。夜になってオーナーの永田雅一大映社長から西本監督に電話が入った。「ミサイル打線にスクイズをさせる監督がどこにいる。バカヤロー」。

▼オーナーといえども作戦にまで口をはさむのはご法度である。当時40歳の監督は「ここにいます。バカヤローは撤回してください」とやり返す。胸のすく啖呵(たんか)だったが、相手は「ラッパ」の異名がある口八丁手八丁のワンマン経営者だ。逆鱗(げきりん)に触れたった1年で解任された。 

▼西本さんはその後、阪急、近鉄の監督をつとめ、パ・リーグで7回も優勝する。しかし日本一には一度もなれず「悲運の闘将」といわれた。「悲運」はあのスクイズ失敗、いや頑固一徹な監督とワンマンオーナーとの「ミスマッチ」から始まったといえる。

 晩年の穏やかな表情からは想像もつかない。鉄拳も辞さない頑固一徹の指導でならした西本さんはオーナーとの衝突も辞さない熱血漢だった。

 大毎監督に就任した1960年、いきなりリーグ優勝を果たす。しかし、大洋との日本シリーズ第2戦、好機で仕掛けたスクイズの采配をめぐり、当時の永田雅一オーナーと衝突したことが原因で退団。就任1年目でリーグ優勝に導きながら監督の座を降りたのは長いプロ野球史のなかで西本さんしかいない。 

 63年には、「灰色の時代」とまで言われた阪急の監督に就任。弱小球団に染みついた負け犬根性を一掃しようとキャッチボールからの徹底指導に着手した。ベテラン選手は猛反発。その年の秋季キャンプ中に「監督信任投票事件」が起こって退団を決意したほどだ。 

 「強くなるには練習しかない」。信念を曲げず、67年に球団創設32年目での悲願のリーグ優勝に導いたのをはじめ、5度の優勝で阪急の第1期黄金時代を築いた。 

 74年から指揮を執った近鉄時代を合わせてリーグ優勝8度。野球殿堂入りも果たし、監督を退いた後は評論家として活躍した。日本一は一度も果たせなかったが、「日本シリーズに8度も出場できたんやから、こんな幸せ者はおらんやろ」。「悲運の名将」の口癖だった。

(産経ニュース2011.11.26)

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 阪急、近鉄を強いチームに育て上げた名称。

 阪急の加藤英司、福本豊、山田久志などを徹底的に鍛えた。

 近鉄では、万年最下位のチームを鍛え上げ、リーグ優勝した。

 采配云々ではなく、荒々しい野球が魅力であった。

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