■1.「天下の太平を祈る」
慶応4(1868)年1月、鳥羽伏見の戦いに負けて江戸に戻った将軍・徳川慶喜は、2月13日の払暁、ひそかに江戸城を抜け出し、上野の寛永寺で、ひたすら恭順の意を表して謹慎していた。
慶喜を追って薩長の官軍はすでに駿府(静岡)に入り、江戸を攻撃せんとの構えを見せていた。一方、幕府の方でも主戦論者が、将軍を擁して薩長と一戦すべし、と訴えていた。
その最中に、山岡鉄太郎(鉄舟)は将軍に呼び出されたのであった。将軍は官軍の大総督宮に恭順の意を示したいと思ったが、警備の任にあった高橋泥舟から、そのような大役を果たせるのは、義弟の山岡をおいて他にはいない、との推挙があったからだ。
この時、山岡は33歳。身長は190センチ近く、体重は100キロを超える巨漢で、剣禅一如の精進を続けていた。
御前に現れた山岡に、将軍は、汝を呼んだのは「駿府の官軍に対し、慶喜の恭順謹慎の実を貫徹せしめ、天下の太平を祈るにあり」と語った。山岡は将軍の憔悴した様子に驚き、この言葉から「余の責任は死よりも重し」と感じた。
■2.「自分には断じて二心はない」
しかし、そんな気持ちはおくびにも出さず、山岡はわざと意地悪く質問した。「今日のこのような最後的情況に達してしまったとき、恭順のお気持ちがどうして起きたのですか?」
「自分は赤心(まごころ)をもって恭順謹慎しているのだが、一度、倒幕の勅命が下った以上は、自分の命はないものと覚悟している。けれども自分のこの気持ちが伝わらず、朝敵とまで憎まれて死ぬのかと思えば、返す返すも残念である・・・。」 慶喜はこう言うとハラハラと涙を落とした。
鉄舟はさらに心を鬼にして、声を荒げて「そんな恨み言をいうようでは本当に心から謹慎しているとは思えません。表向きばかりを飾って、ほかに何かたくらんでおられるのではありませんか」
将軍に面と向かって、ここまで言えたのは、誠実無類の山岡が「この一挙」に命をかけていたからである。慶喜は「いや、自分には断じて二心はない。どんなことでも朝廷の命令には絶対にそむかぬ赤心をもっている」と、真情を披瀝した。
将軍の心底を確かめた鉄舟は、厳然と将軍に誓った。
本当に心の底から誠心誠意をもって謹慎しておられるのでしたら、不肖ながら鉄太郎がそれを承った以上は、必ず朝廷にその事実を徹底するようにして、ご疑念を氷解させてまいります。
鉄舟はこう言い切ると、「国家百万の生霊に代わって生を捨つるは素より余が欲する処なりと、心中青天白日の如く一点の曇りなき赤心を」抱いて、その場を辞去した。
■3.、「朝敵・徳川慶喜家来・山岡鉄太郎、大総督府へ通る」
山岡は当時の幕府の中心人物であった勝海舟の家に寄って、駿府の官軍に赴くことの同意を得た。
山岡が家に戻ると、もう夜になっていた。そこに勝の差し回しで旧友の薩摩人・益満新八郎(休之助)がやってきて、同行を乞うた。鉄舟も薩摩の人間を伴うことは何かにつけて便利であろうと考え、承諾した。そして茶漬けをサラサラと十杯ほどもかっこむと、「ちょっと出てくるぞ」というなり、益満と共に風のように出て行った。
品川、大森を過ぎると、道路の両側に銃を持った官軍が所狭しと並んでいたが、山岡はその中を悠々と進んでいった。剣の試合において、無心に相手に迫っていく心持ちであったろう。
そのうち、隊長の宿営と覚しき家があったので、案内を問わずして入り込むと、隊長らしき人がいた。
大声で、「朝敵・徳川慶喜家来・山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と言うと、100人ほどいた兵たちも、気合いに呑まれたのか、黙って見ているだけだった。あっと気がついたときは、山岡は風のように去っていた。すぐ部下に追わせたが、影も形も見えなかった。
横浜から神奈川にさしかかると、長州の軍隊が充ち満ちていた。こんどは薩摩藩士の益満が「拙者どもは薩摩藩士でごわす。所用あって駿府の大総督府にまかり通る」というと、どの隊も礼を厚くして通してくれた。
■4.「先生!」
こうして二人が昼夜兼行で駿府に着いたのは、3月9日のことだった。すぐに大総督府の本営に赴き、西郷隆盛に面会を求めた。
西郷に相対すると、山岡は「先生!」と、全身が一振りの剣に化したような気迫で、切り出した。
この度の朝敵征討の御趣旨は、事の是非曲直を論ぜず、なんでもかまわず遮二無二(しゃにむに)進撃されるおつもりでしょうか。それとも朝命に服しさえすればそれでよいというのでしょうか、先生のご決心のほどを承りとうございます。
禅の問答で言う「虎口裏に身を横たえる(虎の前で身を横たえる)」で、全身を相手の前に投げ出したようなものである。西郷は大きな眼をギロリと輝かして答えた。
拙者が官軍の参謀として出向いて参ったのは、もちろん人を殺すためでもなければ、国家を騒乱に導くためでもござらぬ。ただ朝廷にそむく不逞のやからを鎮定するためでござる。しかし、先生は、そのようなわかりきったことを、なぜお訊ねになるのでごわすか。
西郷も山岡に対して「先生」という尊称を用いた。相手が朝敵になった幕臣であろうと、礼を尽くすのが西郷であった。
いや、お仰せご尤(もっと)もでござる。官軍とあるからには、そうでなければならぬと存じます。
そこでおたずねしたいのですが、私の主人徳川慶喜は、専ら恭順謹慎し、上野東叡寺の菩提寺にとじこもり、朝廷の御沙汰をお待ち申しております。生死いずれなりとも朝廷の御命令に従う所存でございます。それなのに何の必要があって、このような大軍を進発なさるのですか。
山岡は西郷の答えを逆にとって、こう詰め寄った。
■5.「一徳川のみでなく、日本の将来はどうなりましょうか」
西郷は、幕府方の一部が甲州で官軍に抵抗して戦端を開いたという報告があることから、恭順などとは信用できないと難じた。
山岡は、確かに家臣の中には主人の意志に反して反乱を起こす者がいるが、それは断じて慶喜の関知するところではない、として、慶喜の赤心を朝廷に訴えるべく、自分が危険を冒して推参した次第だ、と述べた。
「どうか先生、大総督宮殿下にこの旨、お取りなしのほどを、ひとえにお願い申し上げます」と山岡は陳情したが、西郷は黙って腕組みしているだけだった。西郷がいつまでも答えないので、山岡は一膝進めてこういった。
私は主人慶喜に代わって、慶喜の本心を礼を厚うして言上したのです。先生がもしこの慶喜の心をお受け下さぬなら、致し方ございません。私は死ぬだけです。
そうなると、いかに徳川家が衰えたりとはいえ、旗本八万騎の中で決死の士はただ鉄太郎一人のみではござらぬ。そうなれば一徳川のみでなく、日本の将来はどうなりましょうか。
それでも先生は進撃なさるおつもりでござるか。それならもはや王師(おうし、天皇の軍隊)とは申せません。謹んで惟(おも)うに、天子は民の父母です。
理非を明らかにし、不逞を討ってこそ王師と申せますが、ひたすら謹慎して朝命に背かぬことを誓う臣下に対し、何ら寛大の御処分がないのみならず、敢えてこれを討伐するなら、天下これより大乱となること、火を見るよりも明らかでござる。
お願い申し上げます。先生! どうかその辺の事情をご推量下さい。
■6.「情において到底忍びがたいものがございます」
必死に日本の将来を思い、道理を説く山岡の一言は、西郷の胸を貫いた。「先生がわざわざおいで下さったお陰で江戸の事情もよく判り申した。ご趣旨を大総督宮に言上しますから、しばらくここでご休息ください」と言って、出ていった。
やがて西郷は戻ってきて、大総督宮からの申し付けとして五箇条の条件を記した書類を渡した。
一、城を明け渡すこと
一、城中の人数を向島へ移すこと
一、兵器を渡すこと
一、軍艦を渡すこと
一、徳川慶喜を備前へ預けること
山岡は4箇条には異存はないが、「慶喜を備前に預ける」という条は承服できないと言い切った。西郷は「朝命ですぞ!」と語気強く憤った。たいていの者なら、西郷の爛々たる巨眼に見据えられて、居すくんでしまったろうが、剣と禅で心を練ってきた山岡は微動だにしない。
それならば先生! 先生と私と立場をかえてお考え下さい。先生のご主人島津公が、もし誤って朝敵の汚名をきせられ、官軍が城下まで攻め寄せてくるというとき、このような朝命が下ったとしたら、先生は唯々諾々として、その命に服して島津公を他家に預けて平然としておられましょうか。
君臣の情というものを、先生はどうお考えでしょうか。私には情において到底忍びがたいものがございます。
■7.「先生が死ぬつもりで来られたことは、おいどんにはよくわかり申す」
山岡がこう急所をつくてと、西郷はしばし黙然としていたが、ややあってから決然としていった。
わかりました。先生のお説は至極ごもっともでごわす。徳川慶喜どののことは、吉之助一身に引き受け申した。先生、必ず心痛無用でござる。
西郷の一言は、泰山のような重みがあった。山岡は喜びの色を表して、「その点さえご承知下らば、他の条々は決して違背致しませぬ。鉄太郎、つつしんでお受け致します」と応えた。
西郷は、つと進んで山岡を抱きかかえるようにして背を叩きながら、しんみりとささやいた。
虎穴に入って虎児を探るというが、先生が死ぬつもりで来られたことは、おいどんにはよくわかり申す。けれども一国の存亡は先生の双肩にかかっておりますぞ。どうか生命を粗末にせず、自重して下さい。
こうして両雄の誓約は成立した。両者はくつろいで、西郷が江戸からはどのようにやってきたかと問うと、山岡は「歩いてやってきましたが、たくさんの兵隊が並んでいて、なかなか立派でした」と答えた。
さすがの西郷もいささか呆れたが、官軍の陣営を破って来られた以上、捕縛しなければならないが、「先生は強そうだから、一つ酔わせておいて縛りましょうか。ハッハッハッ。まあ一杯やりましょう」と酒を酌み交わした。
■8.「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ」
こうして両雄の盟約により、官軍による江戸攻撃は避けることができた。このまま官軍が江戸に押し寄せたら、官軍と幕府軍との内戦で江戸は火の海になり、外国勢力の介入を許す隙を作って、わが国の独立を危うくしたであろう。両雄の心中に共有されていたのは「日本の将来」であった。
3月13日、勝海舟と西郷が芝高輪の薩摩屋敷で会見した。用談の後、勝は近くの愛宕山に西郷を連れ出した。
戦火から救うことのできた江戸の街を一望しながら、西郷は感無量の体で溜め息をついた。「さすがは徳川公だけあって、エライ宝をお持ちだ」と言った。どんな宝かと勝が聞くと、「いや、山岡さんのことです」と言って、こう語った。
イヤ生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、但(ただ)しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう。
「生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ」とは、西郷自身についても言えることだ[a]。そういう「無我無私の忠胆なる人」を作ったのは、山岡鉄舟においては剣と禅、西郷においては、佐藤一斎『言志四録』などの儒学であったろう。
この二人は江戸時代の学問が生んだ人物と言える。そんな二人の人間が、内戦と独立喪失の危機にあった日本を救ったのである。
(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogindex.htm
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